ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世御公儀様御制禁之条奉得其意候常々心ヲ附左様成者見出し申候ハパ早速注進可致候為後目的而如件近文政二年奥州石城龍門寺末常州川行方郡上戸村IV卯月禅~刀、=長国寺寺嶋嘉兵衛殿平野郷助殿青木与次右衛門殿庄為蔵殿司この史料は、麻生藩領大賀村箕輪家の文政二年(一八一九)のものである。この年大賀村では、村役人立合いのもとに宗門改めが行われた。文化・文政年間の大賀村には、天台宗寺院の文殊院があった。二本松寺の門徒である文殊院は、滅罪(葬祭)を行わない寺院で、宗旨人別改帳への請判はしなかった。そのため、村に居住する一八四人全員が、文殊院自身とともに堀之内村(行方郡牛堀町)の二本松寺か、上戸村(牛堀町)の長国寺(嘗洞宗)の檀那となった。人別改帳に請判をした二本松寺と長国寺は、村役人と連署して、もし法度に触れるような訴えがある場合には、蛇度申し聞きをして疑念を除このように箕輪家の宗旨人別改帳く覚悟であると、決意をのぺている。からも、キリシタンの地方への浸透を防ごうとする、幕府の意図を知る」とができる。寺社に対する幕府の厳しい統制は、水戸藩においてもほ徳川光国の寺院改革ぽ同様な形で展開し、二代藩主徳川光聞の強い意志のもとに寺社改革が進められた。光聞は寛文三年(一六六三)、領内の神社や寺院を調べ、各村各宗ごとに「開基帳」を作成させた。「開基帳」には、寺社の境内地の石高や僧404侶・神職の身分、除地証文の有無、開祖や開基の年代、その他詳細な事項が記載されている。現在水戸市の彰考館文庫には、鎮守二冊を含む各宗派の計一五冊の「開基帳」が保存されている。水戸藩では「開基帳」を作成してから二年後の寛文五年三六六五)、寺社奉行を置き山県源七、北河原甚五衛門の両名をその職にあてて、寺社の改革を具体的におし進めた。寺社奉行の任務の一つは、領内寺社の監察であった。水戸藩の寺社改革について記した「寺社巡見」と「破却帳」(国立国会図書館蔵)には、寺院や僧侶の品行、財政状況、寺社の境内に安置されている神仏の由来など、「開基帳」に記載されていない事項に至るまで、細かな調査が行われたことが記されている。}のような入念な準備を経て、覧文六年(一六六六)から寺社の改革がはじまった。徳川光聞の改革は、寛文年間(一六六一1七一己を中心に行われた寺院の改革と、元禄年間(一六八八ー一七O三)の神社の改革とに大別することができる。前述の「破却帳」寛文六年四月二十五日の項に、?ぎのような記録がある。「各地に小寺が散在し、檀家も分散して寺を維持していくのに問題がある。そのため由緒ある寺や大きな寺も衰え、経営が困難になって、学問に励む僧もおらず、まして小寺に至っては、無智の僧ばかりで僧と俗の区別もつかぬ有様である。}れらの僧が人びとを迷わせ、風俗の禍となっている。ゆえに無益の小寺は厳重に調査し破却する(大意)」と当時の仏教界の様子を記している。藩ではこれらの弊害を除くため小寺を破却し、大寺および由緒ある寺院の復興にとりかかった。具体的には、次のような寺院が整理の対象とされ、破却・移寺・僧侶の追放・還俗などの処分が行われた。それは、