ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第4章潮来地方の宗教と教育・文化宝永頃の水戸領鎮守一覧村神社名神体社領神社の支配者板久牛頭天王玉の如1斗8升9合潮来の山伏年行事八大坊熊野三所権現幣用なし真言宗宝殊院及び普門院素鷲明神不明不明不明禰宜甚兵衛11〆辻硯宮硯なし八大坊延方諏訪明神同村之内古高諏訪八幡社幣鳥なし八大坊吉田明神よし回明神鹿島明神築地三十番神鹿島明神第IV-29表鍍金の木像l石3斗4升5合八大坊幣「宝永頃水戸領鎮守帳J(静嘉常文庫厳)新寺の取り立てなどがまた延方村の鎮守吉田明神は、もと諏訪明神の別社で諏訪八幡明神と407ある寺院の保護や援助、より硯宮と改められ鎮守となった。をはかる目的で、由緒辻村では、古くから八幡社として祭られて来た神社が、光国の指示にく、仏教の正しい興隆付されて牛頭天王が鎮守となっている。寺院の破却だけではな九六)大洲の大楽天正(大六天)への相殿になそりの、跡地は八大坊に下寺院改革においては、素鷲明神・禰ねぎ宜の甚兵衛が存在した。熊野三所権現は、元禄九年(一六}のように水戸藩の近世初期の板久村には、牛頭天王と熊野三所権現、そして小さな社のF告なしとなどである。一村一社の制と八幡神社の整理については、つぎのようである。基礎をつくっている体への移行がうかがえる。一向宗の西円寺建立のる。鹿島明神の鍍金の木像の詳細はわからないが、全体的に神道的な神願入寺領として、閉じ頭ず天王(板久村)の、鹿玉島明神(延方村)の鍍金の木像などさまざまであ普門院の跡地を大洗の明神(延方村)、鹿神島明(地築村)の三社で、ほかは硯宮(辻村)の硯、牛元禄12年迄上戸村禰宜出雲以後日蓮宗妙光寺村から普門院を移建し、まずはじめに幣息を神鉢とする神社は、熊野三所権現(板久村)、吉田った延方村には、板久}のほか大寺のなか社宝が永あ年っ間た(。一)八の世表紀か初ら期)水、町域戸神の領社のの潮実来態地を方見にはて第みWよlうm。表のような神る。などである。}れらの方針が示された寛文年聞からおよそ五O年後のも一乗寺が聞かれてい、一村一社の制を徹底する。田村(行方郡麻生町)にて神社に対する僧侶の支配をやめ、神主を育てる。恵雲寺が建てられ、富て八幡菩薩像に見られる神仏習合色の強い八幡神社の整理を行う。客殿や祖師堂を建立させている。また板久村には、妙光寺の末寺としてる。さらにこの時期、光園は築地村の妙光寺に対しても、木材を寄進して仏像など仏教的な神体をとり除き、神道的な幣吊や鏡などに改めれて長勝寺同様に堂宇が整った。て神社の信仰を純粋なものにするために、鎮守社からまた朱印地を持つ上戸村の長国寺(曹洞)には、長勝寺から山門が移築さ神社改革改革のおもな内容は徳川光園のているた。とえば元禄期には、光園の援助で長勝寺の仏殿が完成した。寺院の改革とならんで神社の改革も進んだ。このように小寺の破却がすすむ一方で、古寺の復興もあわせて行われあわせて「汀われた。