ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近W山城国聖貞享元年聖護院山義人間本窓生ー聖護院護(一六八四)以降の八大坊院(長谷)院-1密丁二階堂明応院(栗崎)八「大蔵光院(常葉)坊ーー南窓院(常福寺)龍蔵院(H天覚院(本木)大光院(常葉)西光院(吉田古宿)八大坊(潮来)ー山本坊直下住(名前は不明)長院(潮来)楽大坊ー!大乗院(Hー海蔵院(Hi専海房(H-明楽院(Hー南光院(H!神教院(Hi花本房(嶋崎)ー龍蔵院(H呼ばれていた。元様十一年(一六九八)、諏訪明神と諏訪八幡明神の両社ネ土はτ7を相替か殿えにたな。つTこ治宝まもなく八幡社改めの政策によって、吉田明神とつ- -hγ為、JJAHN閉じ延方村の古高地区には、以前から鹿島明神と吉田明神の二社があこの二社も元禄十一年十月五日相殿になった。吉田明神の跡地「茨滅的修験J r茨城史林J(4号),'1.奇玉史談J(l3巻1)から作成.は、八大坊に下付されたが、明神はまもなく廃社になっ408て、残った鹿島明神が鎮守となった。築地村には、上戸村の禰宜出雲の管理する鎮守根屋明神があった。根屋明神は、元禄十二年(一六九九)社号を鹿島明神と改めた。「宝永頃水戸領鎮守録」(静嘉堂文庫蔵)では、一村一社の制にもかかわらず延方村にみられるよ・つに、一つの村に二つの鎮守があり、藩の政策が浸修験者八大坊透していない様子がうかがえる。また神社の管理者についても、多くは近くの寺院や山伏の八大坊が管理にあたっており、神仏分離が進んでい第IV-48図ないことがわかる。ところで町域の神社の管理者として、たびたび名前の出てくる八大坊とは、どのような人物であろうか。八大坊は延徳二年(一四九O)より、板久村に屋敷を構ぇ、代々同じ名前を名乗る山伏(修験者)である。水戸藩では「開基帳」に名前があり、諸宗寺院と本末関係を結ぶ山伏については、行人と同様還俗して百姓、職人、商人のいずれかになるよう命じているが、八大坊は、寛文・元禄年間に寺社の整理が進んだ時にも、「百姓地」存続した唯一の山伏であった。に建立(「開基帳」)という、寺社破却の条件を持ちながら近世の山伏は慶長十八年(一六二ニ)の「修験道法度」によって、天台宗系の本山派か、真言宗系の当山派のどちらかに所属することになっていた。『茨城史林』四号ほかの記録によれば、八大坊は天台宗寺門派聖護院の流れをくむ本山派の山伏で、常陸地方で強大な勢力を持っていた