ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

山本坊の配下であった。山本坊は、武蔵国入間郡越生に朱印地五O石余りを持つ、聖護院直下の先達山伏である。慶長十四年ご六O九)長谷村(常陸太田市)の山伏密蔵院が入峯修行の時に、その後見人となったことがきっかけとなって、常陸地方へ進出した。元和九年(一六二三)山本坊は、茨城、多珂、行方、鹿島、久慈五郡の大先達(年行事職)となって大きな勢力を持ち、筑波、信太郡の山伏が水戸領の山伏と交代する、延宝六年(一六七八)から貞享元年(一六八四)までの七年間にわたって、その職務を行ったとされている。しかし光園は天和三年(一六八二一)聖護院に対して、密蔵院と栗崎村(水戸市)の二階堂明応院、常磐村(水戸市)の大光院の三者を、山本坊にかえて聖護院の直年行事職にとり立てるように申し入れた。翌年、聖護院は密蔵院を多珂、久慈郡など四五か村支配の山伏とし、ほぽ同じ立場を二階堂明応院にもあたえた(前川康司「茨城の修験」)。もう一人の山伏大光院に関する記録はとぽしく、活動の様子がよく分らない。}れは近世において水戸領内山伏の勢力が、密蔵院と明応院に二分されたことを意味しているのかも知れない。潮来地方の宗教と教育・文化寺社の改革が続く中で、山伏の存在が注目される理由は、人びとが檀那寺の僧侶では満たされぬ願いを、身近な存在の山伏ゃ、行人などの祈諮問や占いに頼っていたためであろう。ところで八大坊は、寛文三年頃にはまだ有力な山伏ではなかった。しかし明応院が大先達となって、元禄三年山本坊より行方地方の支配を継承すると、八大坊も明応院配下の先達に補任されて、板久村周辺の支配を任かされるようになった。当時の八大坊のもとには、板久村の山伏長第4章楽院、蓮華坊、海蔵院、専海房の四院があり、ともに活動していた。さらに前述の前川論文「茨城の修験」によれば、文化二年(一八O五)のころには第w l岨図のように、八大坊は明応院のもとで叡久村の長楽院、大乗院、海蔵院、専海房、明楽院、南光院、延方村の神教院、嶋崎村(行方郡牛堀町)の花本坊と龍蔵院の九院をも支配する、有力な山伏に成長した。寛文・元禄年間の二代藩主光聞による寺社の改革はそ徳川斉昭の寺社改革の後時代とともに次第に弛緩して、僧侶や神職の生活にも安逸な気風がみなぎっていった。天保年間(一八三Oー四一二)の寺社改革の実態を紹介した「筑波根於呂之」(茨城大学図書館蔵)には、当時の寺社の様子を、次のように記している。近来僧侶共風儀不宜、不如法ノ者不少候:::或ハ愚民ヲ欺キ金銭ヲ貧リ或ハ肉食博実女犯等之類茂不少候僧侶らが学業を怠り、人びとをだまして金銭を集めたり、中には肉食をし博実もして、女犯などにはしる者がいたことを紹介している。また水戸藩の編年史である「水戸紀年」(『茨城県史料近世政治編I』)にも、同様の記事で「最近の神宮・僧侶らは、しきりに勧化(人びとから寺社の再建、修復を名目に集金すること)を行いながら神社仏閣の修復を台むって、その費用で酒宴遊興に耽っているものがいる(大意ととも伝えている。このような宗教界の現実を改めるため、再び改革を断行したのが九代藩主斉昭である。斉昭の改革の特長は、その施策が多方面にわたっていることである。寺院と僧侶の整理、風儀の粛正と究鐘や仏具の没収、そして葬祭の刷新などがこの時期に行われた。寺院と僧侶の整理について、さきの「筑波根於呂之」では、天保期の改革で整理された寺院が409一九六か寺に達したと述べている(寺名が記