ブックタイトル潮来町史

ページ
431/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている431ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

こま、ふ'hAMいずれも災害により衰微していたという。寛文十年(一六七O)村では、経済的な理由から寺院の統合が問題となり、長い議論のすえ元禄七年(一六九四)、愛染院一か寺に統合されることになった。同年七月から名主吉右衛門、組頭源兵衛らのもとで寺院の建設が進み、まもなく本堂、桜門、客殿、不動堂が完成した。宝永元年(一七O四)に藩主新庄直隆は、寺の再建を祝って愛染明王一体をおくつた。以後愛染院は、藩主の祈願所となって繁栄した。享保四年(一七一九)建立の本堂(観音堂)には、如意輪観音菩薩が安置され、寺の本尊となっている。現在では、県指定の文化財である鍍金八角釣健龍をはじめ、町指定の文化財多数を保持している。東雲山根本寺愛染院と称し、真言宗豊山派に属している。瑞泰寺この地方の領主島崎氏は、天正十九年(一五九一)二月に佐竹氏によって滅ぼされた。「郷土史記録」によれば、主君を供養するため島崎氏の家臣が、真言宗の観音寺(上戸村地蔵窪)から、観音菩薩の分身を安置す潮来地方の宗教と教育・文化るため、須賀松山(延方)に寺院を建立したのが開基とされている。また同記録には、領内巡視中の藩主光園が、瑞泰寺近くで休息中、木の根元に「菅原天神」と記した石を見つけ、寺の僧侶に丁寧に祭るよう指示し、大宰府天満宮から神体を勧請して寺の本堂に祭ったともある。)れが、延方の天満神社の始まりと云われている。当時は神仏分離が行われる以前のことであり、一時期、寺社ともに栄えた。しかし神仏分離の政策がすすめられると、神体は本堂から移され、新たに建立された天満神社の第4章本殿に祭られた。無檀家としての瑞泰寺は無住となって衰微したが慶応二年(一八六六)暮に寺は焼失・消滅した。竜朔寺『新編常陸国誌』には、大賀地区の寺院として竜期寺(真言宗)と、文殊院(天台宗)のこか寺が存在したと記されている。竜朔寺については、地元の関係者らによる綿密かつ詳細なる調査にもかかわらず、その存在が確認されていない。隣村根小屋(行方郡麻生町)の相賀山竜期寺が記載の寺院であろう。寺院の数が真言宗についで多い宗派は、日蓮宗である。日蓮宗の寺院法華宗ともよばれるこの宗派は、法華経の題目(南無妙法蓮華経)を唱えることによって、救われると説く教えである。日蓮宗は自宗を強調するあまり、他の宗派を激しく攻撃した。そのため他宗や封建支配者から、迫害や弾圧をうけて勢いが衰えた。近世の町域には、築地の妙光寺や妙蓮寺など七か寺と、恵雲寺(潮来)の計八か寺の日蓮宗寺院があった。これらの寺院の中で現在まで存続するのは、妙光寺と恵雲寺の二か寺である。妙光寺築地六O一番地この寺院の開基については、安永年間(一八世紀後期)作の鐘銘に鎌倉時代(一三世紀中期)とある。幕府に仕えた横山遠江守勝光と、白井但馬守国光という二人の御家人が、鎌倉から一乗阿闇梨日門を招いて水原に閉山した。正応三年(一二九O)、三世日正上人の時に現在地に移転したが、そ0コ後の沿革について不明な点が多い。水戸藩の寺院「開基帳」によれば、盛時には法華堂をはじめ七O余坊を持つ大寺院であった。しかしその後すこしずつ衰え、開基からおよそ五O O年後の寛文三年(一六六三)になると、建物五か所を残すほどに衰微したという。妙光寺がふたたび寺勢をとりもどすようになったのは一六世日遥上419