ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

あがった鐘は、音の響きが悪く評判が悪かった。そこで安永年間(一八世紀後期)になって、ふたたび鐘を造りなおしたという。妙光寺は一二世日孝上人の時代になって、富田村(行方郡麻生町)に一乗寺を聞いて新たな活動を始めている。現在寺には、元禄年間の法華三昧堂をはじめ、町指定の文化財になっている光園自筆の額など、多数が残されている。恵雲寺潮来一二五一番地寛政九年(一七九七)鋳造の鐘銘によれば、元禄年問、潮来村の北部に小さな庵があって、人びとはこれを談義所とよんでいた。談義所に恵雲と名のる僧がどこからかやって来て滞在し、近在の人びとに説教をはじめた。この談義所は、藩の政策によって処分の対象となったが、妙光寺の日具上人の努力によって、同寺の付属仏舎となって破却から免れた。潮来地方の宗教と教育・文化第4章この庵は後日、藩主光聞の命により寺院となり、日具上人の号である徳大と、僧恵雲の名をつけ、徳大山恵雲寺とよぶようになった。恵雲寺は元様十年(一六九七)、除地四石一斗八升をえて栄えたが、元文二年(一七三七)火災にあい、撞鐘楼ほかすべてを焼失した。しかし六O年後の寛政九年(一七九七)に、建物の一部が再興された。現在寺には、代々醤油の醸造を業として、一七O石取の郷土となった榊原柳斎(善明、通称啓介)の墓がある。柳斎はまた、窮民賑他の功が多いことでも知られている。正学院築地の日蓮宗寺院のうち妙光寺の末寺で、妙蓮寺とともに破却された。寛永十二年(一六三五)、水戸蓮月呈守よりの引き寺であったが、百姓地に建立されたこともあって処分された。天台宗は、平安時代の初め、最澄によって伝えられた。天台宗の寺院町域での天台宗寺院は、二か寺と少ない。二か寺の所在はともに麻生藩領で、文殊院(大賀)と吉祥院(大生)寺でありいずれも堀之内村(行方郡牛堀町)二本松寺の門徒である。現在は文殊院が残り、吉祥院は存在しない。宣旨ニE疋文殊院大賀六二二番地恵開基の年代等不明な点が多い。二本松寺の由緒沿革や藤島一郎氏の調第IV-60図査によれば、文殊院、吉祥院ともに大生神社の鬼門の地に建立されたと、' 02J、hw・4現存する建物は、阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂の三棟が横一列にならび、珍しい景観を保ち、町の文化財に指定されている。阿弥陀堂および観音堂には、寛文五年(一六六五)と元禄十一年(一六九八)の文字が記されている。阿弥陀如来像をはじめ十一面観音像、不動明王像や毘沙門天像な421