ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近Wdゐ院殊文;第IV-61図tあったので、地元の石田丹後らが、奉行所へ浄土宗寺院の建立を願い出のあった土地は、佐竹義宣の領地で惜しまれる。ど貴重な文化財が、昭和二十二年と平成三年四月盗難にあっているのがT勾43神向寺の末寺であった。一時は一石422四斗四升九合の除地を持っていた時期もあったが、寛文年間(一七世紀中期)に廃寺になり、その開基沿革など詳細は不明である。また神向寺寺についても、現在でも鹿嶋市に地名国だけが残ってはいるがその開基、沿革などはまったく不明である。浄浄国寺潮来一OO九番地第IV-62図寺院「開基帳」によれば、結城の弘経寺(浄土宗)の学文所の僧法誉徳(憶)臆(翁)が、潮来村へ托鉢にきて、熊野神社の別当であった地蔵院に宿泊した。法誉はその日から数日間、地蔵院に逗留して近在の人びととの間で交流を深めた。このころ地蔵院浄土系宗派の寺院阿弥陀仏への誓いを信じ、念仏(南無阿弥陀仏)をて許された。文禄元年(一五九二)のことで浄国寺のはじまりである。その消息はわ唱えれば、来世極楽浄土に往生できると説く、浄からない。さて法誉が、浄国寺にその後どのくらい留まったのか、しばらくは信徒の数も少なく、経済ただ開基後の浄国寺は、土系三派の寺院が町域にそれぞれ一か寺、ずつ存在した。的に苦しい時期が続いた。鐘銘によれば万治二年(一六五九)、撞鐘と鐘楼を建立したとあるが、間(一八世紀初頭)には、本堂など諸堂も完成して盛時を迎えた。それらの寺院は、浄土宗の浄国寺(潮来)、浄土真宗の西国寺(潮来)、しかし明和三年(一七六六)十二月と、寛政十年(一七九八)七月に相つそして、時宗の地福寺(潮来)である。地福寺は数少ない尼寺で、鹿島の}のころから檀家も増えはじめ、宝永・正徳年