ブックタイトル潮来町史

ページ
435/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている435ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

いで失火し、以後急速に衰微した。本尊は、延享元年(一七四四)五月鋳造銘のある聖観音菩薩坐像で、境内には、節婦として知られる窪谷妙真の墓と歌碑がある。また道をへだてた西側には、宮本宗一郎(茶村)の墓もある。浄土宗鎮西派に属し、江戸崎村大念寺の末寺である。西国寺潮来四四二番地寺伝によれば、元禄五年(一六九二)、大洗磯浜の願入寺を創建した親鷺の嫡孫、如信の弟子潤信が開基したとある。寺には、栄念(元禄)秀善(宝永)潤流(享保)泰潤(明和)潤流(安永)|栄潤(寛政)|繋潤(天保)|潤了(天保)|得潤(安政)以下、現在に至るまでの歴代住職の名前が残されている。また『ふるさと潮来』第一O輯によれば、元禄十年(一六九七)正厳寺破却跡に此寺を建立す。是れ義公の意に基くという。現今の本堂は享保十八年(一七三三)に建立したものとあるが、詳細は不明である。潮来地方の宗教と教育・文化現在境内には、町指定の銀杏の大木と、衆生済度遊女の墓という供養塔があり、当時近くにあったという大川楼、玉楼など、浜丁遊廓の姿がしのばれる。なお「南郡村々撞鐘鳴員数書上写」に、浄国寺、長勝寺、恵雲寺に続いて出てくる潮来村の願入寺とは、西国寺のことと思われる。臨済宗は曹洞宗とともに禅宗の一派で、鎌倉時代初期、臨済宗の寺院栄西によって中国から伝えられた。第4章町域には、源頼朝が武運長久を祈願して聞いたと伝えられる長勝寺と、その末寺の則寡寺がある。長勝寺は町域唯一の朱印地を持つ寺院である。長勝寺潮来四二八番地寺院書上げおよび鐘銘によれば、文治元年(一一八五)開基と伝えられるが、初期の寺歴はよくわからない。元徳二年(一三三O)十月、北条相模守山宗鑑(一四代執権北条高時)と下総五郎道暁を大檀那として、諸堂の修造再建が行われ、同時に頼朝の菩提を弔うための党鐘が寄進された。しかしまもなく鎌倉幕府が倒れ、北条氏も滅んで長勝寺は衰微した。寺院「開基帳」にも、鎌倉御代之後、廃壊仕候市無住同前ニ独坊主ナト居申候一一付古録物紛失仕候故、元祖開山之名モ知不申候:::とあって寺院の衰えた姿がうかがえる。長禄二年(一四五八)に諸堂は一時修復されたが、町域はまもなく戦国の争乱にまきこまれ、長勝寺は破壊されふたたび衰微した。寺院が復興するのは戦乱もおさまり、町域の大部分が水戸藩領になってからである。元和元年(一六一五)に続いて、正保元年(一六四四)には仏殿の屋根も葺きかえられ、新創なった長勝寺に、慶安元年(一六四八)一O石の朱印地があたえられて、経済的にも安定した。長勝寺が水戸藩との結びつきを深めたのは、二代藩主光聞の時からである。貞享二年(一六八五)に光聞は奥州二本松松岡寺の太獄祖清を招き、寺の復興にあたらせた。祖清は各地への巡錫と喜捨を熱心に行い、藩からの援助をもとに寺の修復にあたった。長勝寺を訪れた光園は、訪問から元禄七年(一六九四)までの=一年間に、鐘楼堂をはじめ仏殿の再興に材木を提供し、造立を祝って五O両の祝金を贈った。」の時長勝寺の僧として、光固と親交を結んだのが瑞雲則震423