ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節延方学校から郷校へ江戸時代における教育機関の一つに郷校があった。郷水戸藩の郷校校という名称は、「郷村にある学校」という意味であるが、郷校にはその性質、内容などからみて、二種類のものがあった。その付は藩校の延長として藩土の教育を目的としたものであり、その口は一般庶民の教育機関としての郷校である。藩校の延長としての郷校は、いわば「小さな藩校」ともいうべく、藩校に準じて設けられたものであり、教師も多くは藩校の教師が兼任し、教育内容も藩校と大きな違いはなかった。一方、庶民教育機関としての郷校は、領内各地の卒族や一般庶民を教化し、教育する目的で-設立されたものである(石川謙『概観日本教育史』)。水戸藩の郷校は、文化元年(一八O四)に創立された小川稽医館(後に小川郷校と改称)や同四年に設立された延方学校(後に延方郷校と改称)潮来地方の宗教と教育・文化は、地方の有志が郡奉行の援助により郷医や一般庶民の教育を目的として設立したものである。しかし、天保年間(一八三01四三)、藩校弘道館の開設前後に設立された敬業館(後に湊郷校と改称)、益習館(後に太田郷校)、暇習館(後に大久保郷校)、並びに嘉永三年(一八五O)設立の時発館(後に野口郷校)は、水戸藩九代藩主斉昭の指示により天保改革の文教政策の一つとして設立されたものである。そして、安政年間(一八五四1五九)に設立され第4章た大子、大宮、町田、小菅、秋葉、鳥羽田、玉造、潮来、馬頭の村名を校名とした九郷校は、水戸藩尊王嬢夷派の指導による増設であった。のとき、既に設立されていた六郷校も、増設された郷校にならって校名を村名の呼称に改められている。}の校名の改称は既設の郷校も新設された郷校にならって、新らしい時代に対応する教育内容の改革が実施されるようになったことを意味する。右のような設立の経緯から、水戸藩内に設立された一五の郷校は直接、または間接に水戸藩の設立によるものであり、特に藩校弘道館の設立後はその影響を強く受け、弘道館の分校とみられる点もある。しかし、各郷校の教育内容や教育方法からみて、水戸藩の郷校は明らかに庶民教育機関としての郷校に属するものである。水戸藩領において、藩校の延長として藩士の教育を目的とした郷校が全くみられないのは、藩主斉昭によって大規模な藩校弘道館が設立されていたからと思われる。郷土を除く国許の藩士は水戸の城下に居住し、藩校への通学が可能であったから、藩校の延長としての郷校を設ける必百Th土工、Aつこうう。司E』fAufF43さて、水戸藩領に設立された一五郷校について、郷校名、開館年代・郡別、所在地名をみると次のようである(瀬谷義彦『水戸藩郷校の史的研究』)。水戸藩領の南端、行方郡延方村(潮来町延方)の内田延方郷校の起源山麓に設立された延方学校(後に延方郷校と改称)の起源については二つの説がある。その一は、延方村または伯毅、通称長兵衛、また、水戸屋先生)が、江戸で開塾していた加賀藩の浪人、沢田平格の塾が衰退していの住人井村松亭(名は剛通、たのを知り、延方村に招いて内田山麓で開塾させたのがはじまりという。その二は、沢田平格が各地の景勝地を巡り、高人硯士の門をたたいていV)たが、偶然延方村に来訪し、井村松亭こと水戸屋先生の説得に応じて、425