ブックタイトル潮来町史

ページ
438/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている438ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

道、東瀬と号した好学の士であったことは、その墓碑銘に「性好レ遊訪ニまた井村松亭の説得に応じて、延方村で開塾した沢田平格は、講を弘いみなであった。山本北山のもとで、朝川善庵、梁川星巌、沢田平格らと共に学んだ学友塾主の沢田平格を延方村に招いた井村松亭は好学者で、江戸で著名な}の地で書を講ずるようになったという。郷校名(改称後の名)第IV-32表開館年代稽医館(小川郷校)文化元延方学校(延方郷校)文化4敬業館(湊郷校)天保6益習館(太田郷校)天保8暇修館(大久保郷校)天保10時発館(野口郷校)嘉永3大子郷校安政3大宮〆3町田4小菅(小里)〆/4。秋葉J鳥羽田円f玉造5ノ潮来3馬頭4瀬谷義彦『水戸務郷校の史的研究』より郡別南北東西北東北南西水戸藩の郷校所在地名W近(現在地名)世茨城郡小川村(東茨城郡小川町)行方郡延方村(行方郡潮来町〕那珂郡湊村(ひたちなか市〕久慈郡太田村(常陸太田市)多賀郡大久保村(目立市)那珂郡野口村(東茨城郡御前山村)久慈郡大子村(久慈郡大子町)那珂郡大宮村(那珂郡大宮町)久慈郡町田村(久慈郡水府村)久慈郡小菅村(久慈郡里美村)茨城郡秋葉村(東茨城郡茨城町)茨城郡鳥羽田村(東茨城郡茨城町)行方郡玉造村(行方郡玉造町)行方郡潮来村(行方郡潮来町)下野国那須郡馬頭村(栃木県那須郡馬頭町)と思われる。また、この設立に水戸藩の役人が深く関係していたことは、た。ただし、文化五年の干支は庚かのえたつ辰ではなく、戊辰であるから、誤記っちのえたつら最初の聖堂が設立されたのは、文化五年四月であることが明確になっこれは延方郷校の教師沢田弘(平格)が書いた棟札であ)りの、棟札か左衛門同営築幹事竹内勘兵衛郷校学士沢田茂作弘謹誌」とある。化五庚長年夏四月土木功成紅葉郡宰小宮山君自国秀同郡藤鑑事飯村太四センチメートルの杉板作りで、形が卒塔婆形の小棟札で、表面に「文堂の棟札は、縦七0センチメートル、横二四センチメートル、厚さ一・札が発見されたことである。まず、初めに建てられた聖堂、つまり仮聖校の仮聖堂(小聖堂)と、本聖堂(大聖堂)の両方の棟延方郷校の棟札茨城県立歴史館の所蔵する二枚の棟札、所謂延方学聖堂建立についてのこつの説に決着をつけたのは、年建築説である(井村武達『小宮山・楓久軒保木清淵と延方』郷)校。育史史料』に収録された小宮山南梁の「延方郷校」に代表される文化五(この説では本聖堂建築を文化七年とする)である。その二は、『日本教の一は、地元で伝承されてきた文化四年(一八O七)九月の仮聖堂建築説しかし、内田山上に聖堂が建立された時期についても二説がある。そ或は聖堂学校、また講釈所とも呼ばれるようになった。これ以後、塾は半官半民的な性格をもつようになり、名称も延方学校、と協議し、藩からも援助して、内田山上に孔子を杷る聖堂を建立した。秀(楓軒)は、地元の延方村をはじめ隣村の辻村、大洲新固などの有志らを知った当時の水戸藩紅葉郡奉行で、学者・農政家でもあった小宮山昌この沢田平格の優れた学識と人格により、塾は次第に隆盛した。オ1.,ら、その一端を知ることができる。高人硯士一縦ニ覧山川形勝一毎ニ古戦場一審ニ英雄用武之法一」とあることか426