ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

郡奉行小宮山昌秀のほか、郡方役人の飯村太左衛門と竹内勘兵衛の名があることからも明らかである。そしてまた、棟札の裏面にはこれに関係した近隣村の有志名と大工の名前が記されている。まず地元の延方村では里正(庄屋)の小峰孫衛門、願人として内田幸吉・高田貞蔵・小峰京蔵、大洲新田では村田字衛門・同冨之蒸・同次助、辻村では内藤伴蔵・榊原惣吉らの名前が連記され、末尾に延方村大工棟梁文次の名がある。この棟札の記載から、後に仮聖堂とも呼ばれる最初の聖堂の建立は、伝えられてきた文化四年四月ではなく、翌五年四月であること、地元では延方村・辻村・大洲新田の村役人層が願人(発起人)となったこと。してこの建築を担当した大工棟梁は、地元延方村の文次であることなどが明らかになった。なお地元の伝承によると、聖堂を建立するにあたって、水戸藩では領内の大工達に聖堂の二O分の一の絵図面を作って差し出すように通達した。しかしこれに応ずる者がなく、延方村の萩原文次だけがその模型を造り差し出したので、文次が棟梁になったといわれている。潮来地方の宗教と教育・文化第4章右のような棟札の記載ゃ、地元の伝承からみて、井村松亭や沢田平格らが内田山麓に塾を開設したのが文化四年九月のことであり、翌五年四月、内田山上に最初の聖堂が建立されたと考えたい。ただし、棟札は建物の棟上げを記念して、建立の年月、工事の由緒や関係者、大工の名前などを書き残すものである。従って、棟札に「文化五年九月土木功成」とあるのは上棟の年月であり、すべての工事の完成を意味するものではない。落成にはその後一定の期聞を要したものと思われる。なお、の最初の聖堂は本聖堂が建築されるに及んで、潮来村の徳大山恵雲寺(日蓮宗)内に移築され、「七面堂」として現存している。そ次に本聖堂の棟札についてみよう。}の棟札は縦一四二・五センチメートル、横二九センチメートル、厚さ一・五センチメートルの杉板で作られ、形は同じ卒塔婆形である。この表面中央に「文政三年庚辰九月ごうこうルテノせんようシヲスルニヲああレルか江延方郷費之聖廟土木功成於下其闇-一揚政化-勧諭ゆ民俗上鴫呼至哉ねがわくハしメン伝からすツルこれヲンテ庶令二世々勿v教レ喬」と新聖堂の建築工事が文政三年(一八二O)九月に棟上げしたことを明記し、さらに延方郷校が教育の場として永く存続発展することを願っている。そのほか、棟札の記載内容から、文政二年九月に水戸藩主(斉傭)から延方郷校の棟札直筆の碑文を下賜されたので、再び郡庁とはかつて新たに大聖堂を建設することにしたこと。工事は同三年の正月にはじまったが、六月には郡奉行小宮山楓軒が水戸に転任、新たに鈴木弥左衛門が郡奉行に就任し、この年の九月に工事が完了したことなどを知ることができる。第IV-63図また、棟札の裏面には多数の関係者の名前が記されており、藩関係者としては紅葉郡庁監事荒井五左衛門、同建築幹事小沢新七郎、郷校講師下総国津ノ宮村久保木太郎衛門清淵、同加洲処士沢田茂作弘道、神主彫刻御細工人内田幸吉らの名がある。427そして、地元関係者としては延方村