ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世~o"'-"t司近N,、‘旬、“、: 1.\、里正小峰孫衛門、同村願人小峰孫兵衛、辻村里正内藤五郎作、大洲新田願人村田次衛門、同村田市左衛門、世話人清水村大寄次郎兵衛、牛堀村里正須田喜源次、潮来村関戸幸蔵、同窪谷漸作、同宮本尚一郎、同関戸半次、延方村大工棟梁宮岡平蔵、古高庄兵衛・文次、補助鹿島村文左衛門、同与市、木瀧村清七、元山古高与三衛門・助平らの名が記されている。右の二枚の棟札を比較してみると大きな違いがみられる。即ち、文化五年に建築された最初の聖堂の棟札では、関係村が延方・辻・大洲新田だけに限られ、大工の名も棟梁の文次一人だけの記載であった。それが文政三年に建築された大聖堂の棟札では、関係村も延方村・辻・大洲新田のほか潮来村、牛堀村、清水村の村役人が加わって地域的な広がりがみられる。関係大工も棟梁の宮岡平蔵のほか、補助大工や元山を含めると六人となり、規模の大きさを物語っている。また、小宮山楓軒と親交があり、水戸藩からの委嘱により月に二度の出張教授を勤めた下総国の428著名な学者、久保木木窓の名が「郷村講師」として明記されている。久保木竹窓の墓また、延方学校の本聖堂建設が棟札に記されたように文政三年であっともきょたことを証明するものとして、国学者小山田与清の「鹿島日記」があり、)れには概略次の様なことが記されている。鹿島大社への参詣を思い立った与清は文政三年九月七日に江戸を第IV-64図出立、途中各地の知人、文人を訪ねながら鹿島への旅を続けた。十月朔日には延方学校の講師でもある下総津の宮の久保木竹窓宅を訪とさずみときちかねて数日滞在。それから鹿島に至って北条時澄・時隣父子宅を宿にして近隣の文人宅や史蹟を廻った。十月十三日、鹿島の北条時隣、まさよしよしのり延方の小峰晶芳・同関沢嘉徳らと共に文宣王の廟(孔子廟)に詣でた。ここの学士沢田弘が案内して色々と説明してくれた。}の聖廟は小宮山昌秀の考えにより、水戸の殿様が直書した「至聖先師孔子神位」の牌を安置して工事をはじめ、学校内に文庫も建てられた。また、朱舜水先生の伝えた方式により大成殿を建築しており、の完成も間近かで今日も職人達が忙しく働いていた(圏点は筆者)。v、}このように小田山与清の「鹿島日記」からも、また、前述した聖堂の棟札からも延方学校の大聖堂建築は、文化七年ではなく、文政三年であったことが確認できたのである。いずれにしても、水戸藩領の南端に設立された水戸藩郷校の先駆延方学校は、延方村をはじめ近隣村の有志の努力と、紅葉郡奉行であった小宮山楓軒の尽力により設立されたものである。では、この小宮山楓軒の延方学校設立の背景には何があったろうか。この頃、水戸藩においても他藩と同様に農村の荒廃が進行し、小宮山の管轄下にあった南郡地方は特に疲弊が甚だしかった。紅葉組の郡奉行で