ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
学者、農政家でもあった小宮山は、教育の面から農村の振興をはかろうとして、学校の建設に力を尽したものと考えられ(前掲『水戸藩郷校の史的研究』)、支配下の南郡に文化元年小川稽医館を設立し、続いて同四年最南端の延方村の地に延方学校を設立したのであろう。小宮山はその後稽医館や延方学校に立寄って、も自ら設立した学校の整備、充実に努力し、領内巡視の折には必ず小川その状況を視察したと伝えられ、事実「御賞美・御褒美村方記録」(大洲区有文書)には、学校への出席良好なる者の表彰記録が多くみられる。潮来地方の宗教と教育・文化第4章式7 -‘plf1.'3ハ寸岳島厳¥‘f必e!守ぷ,‘,d白,一え,ぐ九えJマ・会,郡奉行小宮山楓軒と地元有志の協力によって聖堂が延方学校の教育設立されると、沢田平格の聞いた私塾は公的な性格を有するようになり、名称も延方学校、聖堂学校、また延方講釈所とも呼ばれるようになった。教師沢田平格は学校内に起居して子弟を教育したが、その学徳を慕って教えを乞う者が次第に増加した。通学の範囲も延方村をはじめ辻・大洲・潮来(潮来町)、十三枚(千葉県佐原市)から、北は安塚(鹿島郡鉾田町)、南は福田(稲敷郡東村)にまで及んだ。生徒の年齢は八歳から一八歳くらいが中心であったが、一般の大人や老人も仕事の合い聞に学んだ。生徒数は時により増減したが、およそ六O人前後、仕事のため夜学だけの者もあったという。教育の内容は最初に往来物(手紙文)や実語教(日常の道徳)など、生活沢田家の墓地に必要な実用的なものを学び、次に教養として中国の古典である中庸・そして最後は自分の好む専門別大学・孟子・四書・五経などに進んだ。の勉強をしたほか、初歩的な医学(漢方)も学んだという。教授の方法は一人の教師が多数の生徒、しかも年齢の異なった者を教えるため、三、四人を一組として組単位に勉強させ、教師は一組ずつ順第IV-65図番に教えて一日で全体が終るような方法がとられた。また、勉強の合い聞には田畑も耕作し、働きながら学び、収穫物は販売して書籍の購入費などに当てた。このような延方学校教師沢田平格の努力に対して、水戸藩は五人扶持を支給してその労に報いたという(井村武逮稿「水戸延方学校」)。このような沢田平格の指導に加えて、さらに、毎月八日と二十三日の月二回は、水戸藩が委嘱した下総国津ノ宮(千葉県佐原市)の学者久保木清淵(竹窓、描竜とも号した)が来訪し、教授にあたった。後には潮来村429