ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世謹ンデ立Zや文士化収メE b春C司スコ昭ト月水戸延方学校近隅田喜源治殿IVこのほか、延方学校では教師平田平格の邸やその周辺の畠に蜜柑苗を植え、生徒と共に栽培して、その販売益金を書籍の購入費用に当てたとも伝えられている。以上のように様々な方法によって、延方学校には多くの図書が備えられていた。ちなみに、安政六年(一八五九)の調査によると、延方学校の蔵書数は二五四部、一九六二冊であった(須田幹三「水戸藩の延方郷校」大正十二年『歴史地理』掲載)。これら蔵書の内容をみると、日本文学・日本歴史・中国文学・中国歴史・地理・儒教・諸家・辞典などが多い。}のような蔵書のすべてが生徒の教育に使用されたとは限らないだろうが}れからも当時の教育内容の一端を知ることができよう。延方郷校は地方有志の協力と郡奉行小宮山楓軒の尽力延方郷校から潮来郷校ヘにより、地方教育の拠点として隆盛をみた。しかし、文政三年(一八二O)六月、小宮山楓軒は他の郡奉行らと共に水戸藩が復活させた献金郷土制に反対したため、留守居物頭に転職を命ぜられて水戸に戻り、延方学校は大きな打撃を受けた。手島町@、A、4lhAHNの時には延方学校の大聖堂建築工事が着々と進行し、」の年の九月には豪壮な本聖堂が完成するのである。その後、小宮山楓軒と親交があり、よしみその誼で延方学校の講師となり、毎月二度の出張教授を勤め、水戸藩より三人扶助を与えられた下総津ノ宮の儒学者久保木清淵が、老齢を理由に延方学校の講師を辞任した。の頃、潮来村の学者宮本尚一郎(後に茶村と号す)も、潮来に私塾「恥不若」(双硯堂、三香社とも称した)を開塾し、門人の教育にあたった。432このように延方学校を設立し、その発展に尽した郡奉行小宮山楓軒ゃ、講師久保木清淵らが去ったあとは、学校教師沢田平格が唯一人、優れた学徳で学校の経営と生徒の教育に努力した。文政十二年(一八二九)、水戸藩八代藩主斉惰(哀公)が没して九代藩主となった斉昭は、郡制の改革を実施して七郡制を四郡制に改めた。同時に民政の集中、統一をはかつてその役所を城下に集めたが、南郡の郡奉行となった吉成文右衛門ゃ、そのあとを継いだ金子孫二郎らは、領内巡みわけ村の折には度々延方学校を訪れ、授業を見分したり、また、自ら講義などに参加している(『水戸港郷校の史的研究』)。斉昭が藩主に就任した当時、領内における庶民教育の学校は、小川稽医館と延方学校の二校だけであった。その後、天保期に敬業館、益習館、暇修館、嘉永期に時薙館の四校が相次いで設立され、さらに安政年間(一八五四1五九)には一挙に九校が領内各地に設立されたのである。これらの諸校は文化年間に設立された小川稽医館や延方学校が、そのそれが農村振興を教育の力で実現地方の教育に大きな成果をもたらし、したいと考えた藩主斉昭をはじめ、水戸藩改革派の施策となったと考えられる。V}そして、文化年間に設立された二校と、天保から嘉永年間に設立された四校は、尊王嬢夷運動の高揚にともなって、安政年間に相次いで郷校が設立されるようになると、すべて設立地の村名をつけた「郷校」の名称に改められている。延方学校が延方郷校と改称されたのは、天保十二年(一八四一)、水戸v}藩の藩校弘道館が仮開館したときのことと伝承されている。しかし、「大洲御用留」(大洲区有文書)や、「大山守御用留」(国立史料館蔵須田家文