ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
書)では、安政年間に至るまで、「延方学校」や「延方講釈所」の名で記によって開館は安政四年のことであり、潮来郷校は延方郷校と全く別に}れにつ同様に安政年間のことと考えられる。載されているので、延方学校が延方郷校と改称されたのは、他の郷校と武館、文館共に新築されたものであることが明らかになった。しかし、}の延方学校も、安政四年(一八五七)、近くの潮来村に「潮いては次のようである。「牛堀・永山両村御用日記」(国立史料館蔵須田家文書)のうち、安政四来郷校」が開館するに及んで、学校としての実質的な機能を潮来郷校に移譲するのである。年正月十五日の記事のなかに、「郡奉行金子孫二郎ら主徒六人が延方学その通達がある。校見分のため罷越すから、人足三人を村境まで差出すように」(大意)とそして、翌十六日には、「延方学館初御出御郡奉行金潮来郷校は開館から焼失まで僅か六、七年間の存在であったため、子孫二郎様郎らが延方学館(郷校)を見分したことが確認される。ところが、同じ御用日記で、その二目前の正月十の実態は不明な点が多い。設立の年代も従来から安政三年とされてきたし、潮来郷校は延方郷校を移築したとの説もある。しかし、近年の調査潮来地方の宗教と教育・文化r第4章郡奉行の講釈所(郷校)立寄りの通達(大洲新田御用留)第IV-69図寺社役梶清次衛門様御立会」と記され、郡奉行の金子孫延方村講釈所への出席人多数につき村役人褒賞(向上)日の記事に、西野惣蔵・野嶋佐三郎両名の名で、「のたび、潮来村へ教場を御建てになり、来る十九日御聞きになるから、帯万御免の者は罷出て修業をいたすよちつに、また、修験・嗣官・猟師の者共も罷出るように通達せよ」(大意)との指示があった。九日の記事には「潮来村教武場開そして当十右御同役様方御立A=同赤飯御酒等頂戴仕致候」と潮来村教武場(武館)が聞かれ、開館式には藩役人が出席、その他の参加者にも赤飯や酒などを出して祝ったことが記されている。右の記事を整理すると、安政四年正月十六日、延方学校の見分に訪れた郡奉行金子孫二郎ら一行六人は、第IV-70図同月十九日に計画されていた潮来村の教武場聞き、即ち潮来郷校の武館聞きに立会一おっことが主目的であり延方学校の見分はそのついでに行った、ということである。433