ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近IV郡奉行の金子孫二郎について付記すると、金子は天保九年(一八三八)434に西郡の郡奉行となったが、藩主斉昭が幕府から謹慎の処分を受けたとせつえんき、その雪寛運動に加わって処罰された。しかし、嘉永六年(一八五三)には南郡の郡奉行に復帰し、安政改革の推進者となった。したがって、延方学校の設立が小宮山楓軒の意向によって設立されたように、潮来郷校は前藩主斉昭の方針に基づく金子孫二郎らの意志によって設立された郷校ともみられる。なお、翌安政五年(一八五八)には同じ管轄下の行方郡玉造村に玉造郷校が開設され、水戸藩の郷校は安政年間に開設された天王台下の潮来郷校跡九校と、それ以前に開設された六校で合計一五郷校となった。話をもどすと、先の史料から明らかになったことはこれまで安政三年の開校とされていた潮来郷校は、教武場、即ち武館の開館が安政四年の正月十九日であったこと、そしてこの時期に延方村には延方学館(延方郷校)が明らかに存在していた事実である。その後、潮来郷校に文館が設けられ、文字通り文武両道の修練場となったのは、武館の開館から第IV-71図八か月後の安政四年九月十六日のことである。潮来郷校の文館開校に先立つ九月十四日、潮来領の大山守石田丹後(潮来村)、同添役須田重作(牛堀村)の連名で、領内各村に次の様に通知している。明後十六日潮来郷校御開ニ相成候一一付村役人其外御人数御組入之者志有之者ハ早朝より罷出候様申達-一可被成候E修験嗣官医生等有之村万三間ハ是又御達可被成候」(前掲「牛堀・永山両村御用日記」)。そして、九月十六日の御用日記には「雨降潮来郷校御開ニ成御泊り」、十七日は「潮来御出立船中御昼食玉造御泊り」とあり、十六日には予定通りに開館式が行われたこと、当日は雨降りであったため、立会人の郡奉行一行は潮来で一泊、翌十七日に船で潮来を出発し、玉造に向った