ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

}とが記されている。またこの御用日記には、潮来郷校の開館に先立って、同年の閏五月二に宛てた書簡の写しがあり、その内容は次のようである。十一日、郡方役人の大内藤蔵と杉浦吉十郎が、延方郷校の教師沢田平格「このたび延方郷校を潮来に移して文館武館をひとまとめにするため、新規の普請が完成した。}れまでの延方学館は貴方より拝借済みであるが、お勤めは是迄と同様に考えて潮来へ通勤なされ、諸生の教育をお願だきたい」という意味のものである。そして、いしたい。なお、孔子聖廟は従前通りにさし置きたいのでご了解をいた)れが地元に伝承されている「延方郷校が潮来に移されて潮来郷校になった」という移転説の根拠になったのではなかろうか。しかし、実際には延方郷校とは全く別個に、潮来村の恵雲寺西隣りの天王台下に教武場(武館)を設立して潮来郷校と命名、後に文館を増設し潮来地方の宗教と教育・文化第4章て文武の教場とし、延方郷校の教師沢田平格を文館の教師に招いたというのが実情であろう。fこだこの年に七三歳の老齢であった沢田平格が、永年起居して教育していた延方郷校から、潮来郷校まで出張教授を実際にしたか否か疑問である。ちなみに沢田平格はこの三年後の万延元年(一八六O )、七六歳で没している。従って藩命により潮来郷校に出張教授したのは、沢田平格ではなく、平格が晩年に養子とした二代目教師の沢田格介であったかも知れない。格介は水戸藩の家に生れ、槍の達人であったとも伝えられている。延方郷校の豪壮な聖堂や校舎は廃藩後まで現地に残されていたが、中心の教師を欠いた延方郷校の実情は、廃校同様であったと考えられる。安政四年(一八五七)に開館した潮来郷校(別称文武館・潮来館)は、五O年前の文化四年(一八O七)に開設された延方学校とは、全くその性格を異にした。延方学校は地方の有志が庶民教育のため、郡奉行小宮山楓延方郷校顕彰碑と藩主直筆の木牌軒の尽力を得て開設した、半官半民の教諭所的な性格の学校である。具体的には、学校の経営が郡奉行所に蓄えた学校仕法金を資金としたほか、近隣村有志による献金や書籍などの現物寄贈、それと教師と生徒の農耕収入などでまかなわれた。また、教師に対する手当は藩から支給され、身分的にも郷土格の待遇を受け、教育内容も教師沢田平格や講師久保木清淵の指導に任せられていた。延方学校(郷校)は、私塾や寺子屋のほか大きな教育機関の全く存在し第IV-72図なかったこの地方では、最高の教育機関であった。しかも、小川稽医館と共に水戸藩の郷校では最も早い文化年間に設立されたものであり、その影響は極めて大きいものがある。即ち、}の二校の教育成果が著しいものであったから、天保1嘉永期に四校、さらに安政期に九校の郷校が435