ブックタイトル潮来町史

ページ
448/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている448ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世設立されたとみることができ、まさに水戸藩郷校の先駆的存在であった。また、直接的な成果では、延方学校で学んだものが後に各地の指導者近となった例が少なくない。例えば初代の延方小学校長となった高固定五郎、教師沢田平格から沢田の姓を与えられ名医となった沢田弘斉、延方Wで清川学舎を開設した高田清二郎、江戸の水戸邸に出仕し晩年は郷里の子弟教育に尽した草野楠窓などはその一例である。これに対して潮来郷校は、内外共に急迫した時代を背景として前藩主斉昭の強い方針によって設立されたものであり、武館が文館に先立って開館されたこと、或は「文武館」の名称に象徴されるように弓・剣・槍・長万・柔道・鉄砲などの稽古場が整備されていた(「潮来沿革史」)。また、教育の対象も前述の「御用日記」に記されるように村役人をはじめ一般農民のほか、修験・神宮・郷医など広い範囲にわたり、郡奉行の領内巡視や検見廻村の折には、文武の見分を実施している(文久元年「大洲村御用留」)。なお、郷校の運営などにも村役人を世話役として協力させたことは、「潮来村年寄関戸市郎兵衛右者郷校文館世話役申附候事」(安政四年「大洲村御用留」)、とあることからも知られ、)のほか、潮来村の宮本千蔵、同石田縫殿之助、辻村の榊原啓介らが文武世話役を命ぜられたと、}02J、hve -郷校の教育や運営は、水戸藩尊嬢改革派の指導で進められたが、藩内における天狗・諸生両派の対立が次第に激化してくると、潮来郷校は湊郷校・小川郷校と共に「三館」と呼ばれて尊王媛夷派の拠点となり、れに同調した郷校生徒や農民達が多数参加して、「潮来勢」と呼ばれる一大勢力を形成した。そして、元治元年(一八六四)九月、尊嬢激派追討の幕命を受けた麻生藩兵の攻撃により、ある。V}そのすべてを焼失して郷校としての幕を閉じたので436