ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第四節書物(出版物)にみる潮来の諸相古来より名勝の地として知られる潮来は、水利に恵まれ利根川の舟運と深くかかわって発展した。近世においても江戸をはじめ各地から、多くの文人患一客が潮来を訪れて、町の様子や印象をさまざまな形で書き残している。それらの記録の中で、潮来地方はどのように記述されていたのだろうか。松尾芭蕉の「鹿島詣」や、十返舎一九の「常陸道中記」などいくつかを紹介して、当時の潮来の姿を見ていきたい。貞享四年(一六八七)八月、俳人松尾芭蕉は月見を兼ねて鹿言旨鹿島神宮への参詣に旅立った。芭蕉に同行したのは、禅島僧宗波と、後年「奥の細道」の旅でも一緒であった、浪客の士河合曾良である。」の時の短い記録が「鹿島詣」である。}の記録は別名「鹿島紀行」とも云われ、芭蕉が郷里伊賀から大和、近江、美潮来地方の宗教と教育・文化濃、甲斐を通って江戸へ帰った「野ざらし紀行」の旅から、二年余り後の作品である。「鹿島詣」によると、三人は八月十四日の早朝、江戸深川の芭蕉庵をたち、行徳(千葉県浦安市)から陸路八幡、釜ケ谷を経て、夕方になって利根川のほとりの布佐(千葉県我孫子市)に着いた。布佐は鹿島への渡船場の地である。一行は夜になって、利根川を下り鹿島へ向った。その日の空はよく晴第4章れて月の美しい夜であった。しかし翌十五日になると天気はくずれ、雨が降り出した。記録には、「昼より雨しきりに降りて、月見るべくもあらず。ふもとに根本寺のさきの和尚、いまは世をのがれて、}の所におはしけるといふを聞きて、尋ね入りてふしぬ」とある。直蕉は以前、参禅した時の師といわれる仏頂和尚を訪ね、再会を喜びあった。芭蕉が訪ねた場所については、いまだに特定されていないが、和尚はすでに根本寺の住職を辞し、阿玉(鹿島郡大洋村)の大儀寺の住職となっていた。一行はその夜、中秋の名月を眺めることが出来ないまま、仏頂和尚とわずかに月が姿をともに宿泊した。幸い夜明け近くになって雨は止み、見せた。和尚に促された一行は、雲の切れ間の月を見ながら歌や句を詠んだ。をりをりにかはらぬ空の月かけも千々のながめは雲のまにまに和尚月はやし梢は雨を持ちながら桃青(芭蕉)この時の作品十四首が「鹿島詣」の後半部に記されている。さて芭蕉と潮来の関係であるが、「鹿島詣」の中には残念ながら潮来の文字は、まったく見られない。しかし旅の行程上、潮来を通つての参詣であったことは確かであろう。現在大洲の水神社に刈かけし田面の鶴や里の秋桃青と刻んだ「鹿島詣」からとった句碑がある。}れは潮来周辺の景色を詠んだものではなかろうか。参詣の帰途芭蕉らの一行は、行徳の小西似春(通称加賀屋三郎右衛門)の屋敷を訪ねた。およそ一O日程の滞在の聞に、芭蕉は似春と次の三句時せよ藁干す宿の友雀437主人