ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

記述では一九が、潮来のほうらい屋という宿に一泊し、大いにさわいで、楽しんでいる様子が描かれている。鹿島より文三里ほどもどりて、潮来の出島につき、ほうらい屋という家にいり、その夜はここに一泊し、女郎あまたあつめて大さハぎをやり、たのしミける。8春ハ猶人のこ」ろも二あがりのいたこのうらにひくかすミかな15蒲鉾のいたこといへとうつくしゐこLの女らに鮫肌ハなし此ところ利根川筋へっき出したる島にて、船着なれば、いたって繁昌のところなり。茶屋の二階、いずれもきれいにして、霞の浦を一面に見わたし、景色いたってよし。}の潮来ハおもしろい所だから、(いざざ)いつまでもいたこさなしにいたことしたいが、金のいるのがいたことだ。それとも女郎衆が心意義のいたこでひきとめてくれるなら、逗留いたこうか。そうなければ、潮来地方の宗教と教育・文化第4章こんなところにいたこたない(中略)今夜のやうなおもしろいことハない。十年ばかりもいきのびた。しかし、はらひの時書付で目をまさねばよいがA口占…がいかない。などと、一九得意の駄酒落をくりかえしながら、翌日(月日不明)には玉造を目指して旅立っていった。下総国布川(北相馬郡利根町)の医師赤松宗日一が、幕末の利根川図志安政年間(一九世紀中期)に著した地誌である。本の内容は、その名前の通り利根川の流れに沿って、付近の社寺、名所、旧跡、物産、伝説などを書き記したものである。記述にあたって宗Eは、多くの地誌や古文書類を参考にし、引用した上で、図誌と云われるのにふさわしく、八O余枚におよぶ絵図を収めている。『利根川図志』の中で潮来について触れた部分から、いくつかをぬき出してみよう。まず潮来の地名の由来について、『鹿島志』と『潮来図誌』の記述を引用して、つぎのように記している。『鹿島志』は鹿島神宮の神宮北条大洲水神社の芭蕉句碑時都が、文政六年(一八二三)に著した鹿島地方の地誌である。いんしにぎやかところ鹿島よりは西二里、行方郡にて淫躍有て、いと繁昌なる地なり。潮いたのみやもとは板来と書きたるを、西山の君、鹿島に潮宮ありて常来の字、陸の方言に潮をいたといへる、興あることとおぼして、かく書改ら従ν是往レ南十里、板きよみはらてんわう来村近臨二海浜↓安二置駅家一此謂ニ板来之駅一云々。また浄見原天皇たけかしまみことあだともが勺たちまちかけうせぬの御世建借間命をして凶賊ともを撃亡さるる所に、種一時焚減、此時痛殺所レ一言、今謂二伊多久之郷一云々れたりとか。倭名紗に行方郡板来、風土記に、第IV-75図すなわち、)れより南へ一O里程行ったところに潮来村があって、海浜の近くに駅家が置かれている。439)れを潮来の駅といった。また天武天