ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

た。船頭にたずねると潮来の唄であるという。潮来は常陸南部の地で鹿島参拝の帰途、}の地を訪ねると川に臨んだ数百軒の家が建ち並び、娼妓が多く、人々は日夜集まり遊び戯れている。また潮来の地は東は海を控え、西は都に通じ、水運の利、魚箪の富が多く、商人、旅人の集まる所で、利根川東部の一つの都会である。そこで歌われる歌謡は、大いに異なった唄であった。よくはわからないが、中国六朝時代の歌謡や風俗のありさまを見る思いがする。私は中うたここに詞二O首をつくった。それに舟旅国の江南地方の詩歌をまねて、の感想をそえていささかのなぐさみにしたい(大意)。南郭が「潮来曲の唄」に、強い興味を覚えた様子がこの「序」からうかがえる。なお「潮来曲の唄」については、常陸国の地誌を記述したものとして著名な、『新編常陸国誌』にも次のように記されている。潮来曲凡ソ奥羽ノ海運、銚子ノ海口ヨリ入テ、内海ヲ過ギ江戸ニ通ズルノ埠頭ナリ。震ヲ以テ娼家妓ヲタクハへ、客ヲヒクコト許サぺ凡テ百余人、江口神崎ノ風アリ、国風ヲ調ヒ、三弦ヲ調シテ客心ヲナグサム、其曲ヲ潮来曲ト云フ、コノ曲音律ニヨク合ヘルヨシ潮来地方の宗教と教育・文化(中略)コノ曲、享和ノ比、専江戸ノ地-一流行シテ、遊野郎ノ弄プ一節トナレリ、初テ江戸一一出タル時モ歌ノ数尤多シ、其曲ハ皆同ジこのように「潮来曲」は、享和年代(一八O一1二一)から江戸で流行した。しかし本場潮来の節まわしは、江戸の「潮来曲」よりも早口であったらしく、これを見聞した劇作者の式亭三馬は、文化三年(一八O六)の著作「潮来婦誌」の中で、はやしすべソレソレという燐子は云ふに及ばず、総ての合の手のはやし方、江川柚や戸と違いて甚だ口早に嚇して、後より追いかくるやう也。芸者は勿第4章論はらわたをひき出すばかりの大声をあげ、色もかん所も無く、うたっぺらほんにて彊ふと記して、粗野で異様な唄の様子を紹介している。すなわち、南郭の活躍した享保i延享年間(一八世紀前期)の「潮来曲」は、地元で哀愁のある歌謡として歌われていたものが、文化年間(一八O四1一七)の三馬の時代になると、早口の粗野な歌に変わっていったことが、書物を通してうかがえる。長州藩の幕末の思想家吉田松陰の日記である。松陰はぺ東北遊日記リlの来航(一八五三)にあたり、下回から海外への渡航を計画して捕えられた。以後郷里の萩で松下村塾を聞き、久坂玄瑞、高杉晋作ら多くの人材を育てたが、安政の大獄で刑死(一八五六)した。嘉永田年(一八五一)十二月十四日、松陰は肥後国益城郡出身の勤王家宮部鼎蔵のすすめにより、天下の形勢を確かめるため東国へ旅立った。)の時の記録が「東北遊日記」である。嘉永五年一月、鹿島神宮に参詣した松陰は、銚子付近の海防探査の途中、潮来に足を伸ばしている。日記によれば江戸桜田の屋敷を発って、水海道、筑波、真壁を過ぎ、笠間、赤塚を経て水戸の永井芳之助の家に着いたのは、十二月十九日の昼過、ぎであった。永井芳之助は、水一戸では勤王の志士として知られる人物である。永井家に滞在中、松陰は多くの人と天下の時勢を論じ、暮もおしせまった十一一月二十九日の早朝、水戸を発って光閏ゆかりの地、太田の西山から佐竹に向かった。瑞竜で新年を迎え、一月二日午後ふたたび水戸の永井芳之助の客となった。一月四日朝永井家を後にした松陰は、青柳から舟で那珂湊に下り、大貫から古奈地(旭村子生)に出た。新年早々の忙しい旅である。松陰の目。コ的は鹿島神宮への参詣と、長い海岸線を持つ鹿島灘の海防探査であった。441