ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近W一月五日、海岸線を自分の足で確かめようと、古奈地から砂浜を歩いてくみあげ汲上(大洋村)を通り鹿島神宮へ着いた。朝から雲一つない快晴の一月六日、神宮を参拝し、北条時之助と吉川仲之助の二人の神宮と会い、午後に鰐川から舟に乗って一里余りの潮来に宮本庄一郎を訪れ一泊している。庄一郎は茶村の名で知られる漢詩人で、江戸に遊学して詩文経史を学んだ。学なり郷里に帰ると、その名を聞いて多くの人が彼の門に入門した。天保元年(一八三O)庄一郎は、藩主斉昭に意見を具申し、それが斉昭の意にかない郷土に抜てきされた。後年斉昭の失脚にともない、投獄された時期もあったが、藤田東湖、立原杏所らと交わり、多くの文人が彼を訪ねて来た。松陰もその一人である。松陰が訪ねた夜は雨になった。宮本家で松陰は、雨音を聞きながら漢詩を作っている。それは遠く離れた故郷長州にいる兄伯教を想う、次のような詩である。宮本茶村の基しえん孤麻半夜夢成り難し、聴断す四櫓点滴の声。こうべめぐ句ぱ〈あけいいかん首を回せば山河郷国遡たり、阿兄今夜定めて何の情ぞ(書き下し)ひさし四方の庇から落ちる雨だれの音を聞いている。ふ442一人眠れぬままに、と想うと故郷のはるかに遠いことか。愛する兄は、今ごろ何をしておられるだろうか(大意)、という詩である。翌七日午前、二二歳の松陰は、六O歳になっていた庄一郎からさまぢ第IV-77図まな話を聞き、意見をかわした。松陰は、以前庄一郎が獄中で詠んだとされるかね死去予て期す首陽に葬らるるを、眠り醒めて草底に残夢を尋ねれば、しんせい百年の身世、落月の光;到;寒虻4しf2頭f司断2場I書き下し)。という、この世にあって理想のために戦い、刑場の露と消えても、そオもを実現するという気概を詠んだ詩に感動し、松下村塾を聞いた当時、くりかえし塾生に話して聞かせたといわれている。同日昼ごろ庄一郎と別れた松陰は、銚子を訪ねて松岸に二泊。帰途は利根川をさかのぼり、息栖に一泊して牛堀に至ったが、強風のため舟をたどおり玉造まで陸路を辿り、}こに一泊して水戸へ旅立っていった。文政九年(一八二六)刊行の紀行文で、大子村(久慈郡常陸紀行大子町)の黒崎貞孝の著書である。黒崎貞孝は大子の旧家の当主で藤田幽谷の門に学び、久慈郡天下野村の学者木村謙次とも親しい人物である。著書の内容は紀行とはいえ、年月はまったく書かれていないばかりか、日を追って旅した紀行文でもない。著者の言によれば、「目に見、聞にしたがひ、そこはかとなくかきつらね」たものである。この記録の中で潮来に関する記述は、潮来の地名の由来、潮来と延方