ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

の村の様子、長勝寺の開基と古鐘について記した後で、此村に宮本尚一郎なるものあり。名球、字求玉、茶村と号せり。博学篤厚の士たり。其先武名の家にして、郷中の甲族たり、又屋上にさらそうじゅしけい能望山あり。湘江の斑竹、沙羅双樹、楊梅、紫刑、数種を植。昔時いんF』西山黄門源光園公亭を御築かせ給ひて股湖と名づけ給ひ、平生遊覧せられしよしなり。茶村の祖了西なるものへ此亭を賜はると云。股湖亭の三字西山公御筆にしてまた着色の鷹の絵もありといふ。其他色ょうでいけん明人夏仲昭の筆せる竹の画及び荷葉の澄泥硯をも同じく賜わると云。と宮本庄一郎の人となりやその祖先を紹介し、続いて小宮山楓軒と窪木幡竜の人柄や業績などを、次のように記している。同郡延方村あり。文化年中本藩小宮山先生嘗て此郡中に宰たり。先生博学温厚にしてよく下民を教育せり。実に近世の人材たり、此地に学校を設け、Eつ聖廟をも建て給ふ。此境長松蔚然として霞浦に釜立し、一望胸襟を諮にす。山下に蓮池あり。また美観たり。余が友人沢田氏此地に来り学校に預れり。:::文此村曲松という処に一友人あり。余少時此地に遊びて朋友両三輩と械取及び佐原等に舟遊潮来地方の宗教と教育・文化せり。:::又田崎あり。学を好て医を業とし、最も其術に委し。其隣里に窪木幡竜子なるものあり。性温雅硯学の名あり。延方学校を主宰せると云。そのほか『常陸紀行』には、みかん柑、多珂郡秋山より以南、油那子等の諸村比屋皆あり。行方郡大洲新田村田氏より上に献ぜり。銚子より出るもの最多し。とあって、柑の栽培が行われていた様子が記されている。同様の記録はみくさ後述の「水府史料」や「美ち州」の中にも見られる。第4章また町域の産業について、柑のほかに『新編常陸国誌』では、醤油:・行方郡板来ヨリモ出、其内堀田屋ト云者ノ製スルヲヨシトスサレドモ凡一一トリテハ中品ナリ、印ニハ山形ノ下-一七ノ字ヲ干tヵ蝦喜ク伺ア山七称ス行方郡板来ヨリモ出、江戸及近国ニヒサグ、共ニ内海ニ産スル所ナリとあって、潮来の特産として、醤油と干蝦の二品をあげている。水戸藩の学者で、南郡の郡奉行を勤めた小宮山楓軒の水府史料著した、水戸領全域の地誌が「水府史料」である。文化四年(一八O七)にはその大部分が完成し、郡別に各村むらの戸数、古今の沿革や位置から詳細な事柄に至るまで、時には絵図を使ってまとめている。町域については、潮来の地名の由来と変遷、大洲新田の産物、徳島新田の伝承などが記されている。一部を紹介すると、大洲新田蜜柑、柑子類を産す。潮来領十六か村皆産すといへとも此地のものをよしとす。此辺すべて汐を帯び、暖気成る故、蘇鉄肉桂、さぼてん杯の類も有。水戸領諸郡外に有事なし。徳島新田大洲新田より土地つづきにて、湖中に突出せり。旧名前洲或ハ福島ト称ス。此辺国間すぺて朽腐せる員多し。:::古昔下総常陸の新固なかりし時は此辺潮汐出入して、塩をも煮、貝類をも産して、真の入海なりと見えたり、今数多の村々ひらけ、湖中に家居して後、自ら潮汐も来らず、員類産せざりしと見えたり:::今も土人は海とよんで湖と云はずとある。以上のほかに潮来に関する記録として、潮来の俗謡に漢詩の絶句と葛飾北斎の美人画を添えて、享和二年(一八O二)に江戸の蔦屋から刊行さ443