ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第五章幕末・維新期の潮来地方第一節水戸藩の天狗騒動水戸藩内では『大日本史』の編さん事業をめぐって、水戸藩内の分裂事業の継続を主張する派(藤田幽谷とその門下生たちで、おもに中・下級武士層)と、適宜の形で編さん事業の終了を認める派(立原翠軒とその学派の人たち)との意見の対立ところが八代藩主斉備の後継をめぐって、があった。一三代将軍家斉の子を迎えようとする派(清水恒之丞を養嗣子にというので清水派とよばれた)と、斉備の弟斉昭を擁立する派とに分裂したが、学問上の立場では斉昭擁立運動をしたのが幽谷派の中下級武士層で、」れに対立する清水派が主に立原派の保守門閥層であった。この藩主擁立をめぐっての政幕末・維新期の潮来地方治的対立は、文政十二年(一八二九)十月、九代藩主に斉昭が就任することによって、中下級武士層が勝利した。そして翌天保元年(一九三O )から斉昭が藩政改革をはじめると、彼らは改革派として藩主斉昭のもと、天保改革の中心的位置をしめた。斉昭主導の藩政改革を快く思わない保守門閥派は、改革派を「天狗」とののしり、」れに対して天狗派はやがて保守門閥派を「好人・好党」などとさげすんだ。第5章天保改革は天保元年に開始され、両派の対立を徐々に拡大しながらも、強力な指導力を発揮した藩主斉昭によって、各種の政策が一四年間にわたって推進されていった。改革は途中何度か挫折しかねないこともあったが、天保四年、十一年、十四年と三度におよぶ斉昭の就藩(水戸に帰ること)と、改革派の危機のりきり策とによって、どうにか改革の眼目は実現されたのである。改革のおもなものをあげると、第一が質素倹約の励行で、第二が武備の充実である。武備の面ではその主力が海防策である。天保三年(一八三二)に海防掛を新設し、その後大砲や火薬類を製造して海岸に砲台を築いた。さらに助川(目立市)に海防陣屋の助川館を築造し、家老山野辺義観と家臣らを土着させた。海防のために農兵設置の計画も早く、天保十二年にはこれを実現させている。藩士らの軍事訓練には天保十一年から追鳥狩という行事を行い、その訓練ぶりは他藩の人びとの目を驚かせた。第三が学校の建設で藩校弘道館を天保十二年に建設開館した。文・武・医の教育を行うものである。さらに館内に郷校を設置した。郷校建設は最終的には安政期までかかるが、郷校には改革派の家臣が配置されたから、農民有志の聞に藩政改革の理念が行きわたり、尊嬢運動の高まりとともに、農民層からこの運動に参加する者が多く出た。とりわけ天狗騒動には参加・犠牲者が数多く出たのである。第四は財政建直し策であるが、斉昭は幕府に蝦夷地(北海道)の開拓を願い出たり、また旗本知行地の多い鹿島地方一二万石を、水戸領に編入することを請願したが、概して財政策は第五の殖産興業策と同様に不徹底であり、成功したとは445