ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世いえない。第六が検地をはじめとする農村対策である。農村人口の増加策とともに貧富の差を少なくしようとし、天保十一年(一八四O)から二近年四か月かかって検地を完了した。検地の結果は領地高二九万九000W余石となり、天保初期より減石となった。最後の第七が社寺改革で、本格的には天保十四年に実施された。神仏分離を断行し、寺請制度にかわって氏子制度を確立しようとした。東照宮の祭儀が唯一神道に改められたし、多くの寺院が整理・破却された。この社寺改革は神道を重んじた水戸学思想の現われであったが、さきに行われた段鐘鋳砲の政策とともに領内寺院の強い反感を買い、さらに改革に批判的な保守門閥派とがいっしょになって幕府を動かし、天保十五年(一八四四)五月、ついに斉昭をはじめ改革派を失脚させた。斉昭が隠居・謹慎の処分をうけると、改革派つまり天狗派と領内の農せつえん民たちの聞から、斉昭宥免を願う雪寛運動がおこった(年号が弘化元年と代るので、弘化の雪菟運動とよばれる)。命がけで江戸へ出ていって水戸の支藩を頼り、斉昭や改革派の処罰解除を願ったのである。この雪-菟運動は当初は領内北郡が中心であったが、後におこるこの運動には当潮来地方からかなりの数の農民たちが参加していく。嘉永六年(一八五三)六月のペリl来航は、水戸藩政に安政期の藩情大きな影響をあたえた。老中阿部正弘の挙国一致政策によって、謹慎を解かれていた前藩主斉昭が海防参与に任命され、それにともなってしばらく沈潜していた、藤田東湖や戸田忠敵ら改革派の人びとが、江戸によばれて海防掛として斉昭を助けることとなった。藩内では保守門閥派にかわって天狗派が力を得たのである。斉昭はペリlの来航直後に大砲七四門を幕府に献上し、さらに阿部老中に「海防愚存」と題する建議書を提出した。だが幕府の態度が固まらぬうちペリ1再来航があり、安政元年(一八446五四)三月に日米和親条約の締結となった。}のため斉昭は周年四月海防参与をやめ、以後は若い藩主慶篤の背後にあって、中絶した天保改革に続く安政改革を実施していった。当然その主力は軍備充実であり、大砲鋳造のために反射炉を建造し、また軍艦の建造が行われた。追鳥狩も盛大となり、大小銃の修練場として那岡川沿岸に神勢館が開設された。そして軍備充実とともに教育の振興がはかられ、郷校の教育改革と新設がすすめられた。当地方では延方郷校に次いで潮来郷校が設立されたが、郷校では尊嬢主義の教育と、実戦に役立つ武術の訓練が義務づけられて、lっp,、。、uwJJ安政改革がすすむなか天狗派と保守門閥派の対立は激化の方向をたどった。とくに安政二年十月の江戸大地震によって、藤田東湖・戸田忠倣の二人が死去すると、藩内党争はついに安政三年四月の元家老結城寅寿らの処刑に発展した。}の保守門閥派巨頭の処刑は藩内に大きな衝撃をあたえた。このため藩内事情はいっそう複雑化するばかりとなった。この結城派の処分については当地方にも、次のような達しがあった(国立史料館蔵須田家文書「御触書札留」)。安政四年巳年去辰四月結城寅寿等夫々御所置有レ之候節、一統心得方相違候振有レ之候処、其瑚御召捕-一相成居候寅寿余党之者外、谷田部藤七郎と拘り人等此度必所置相成候、付てハ尚更前条相達候様厚相守、心得違等無レ之様蛇度相心得可レ申旨被-両出-もの也藩内党争とは別に将軍継嗣問題と日米通商条約調印問題がおこった。一三代将軍家定の継嗣問題では、斉昭の第七子である一橋慶喜を推す一橋派の動きが高まった。水戸藩領内でも改革派を中心に、農民有志らの