ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
慶喜擁立運動が活発に展開されていった。よしとみ紀州藩主徳川慶福を推し、南紀派を形成して対立した。一橋派に対して譜代大名らはこの将軍継嗣問題とならんで、幕府と米国領事ハリスとの聞に、日米通商条約調印の交渉がすすめられていたが、」れについても一橋派の水戸藩士民らは、幕閣らの動向に批判的であった。条約勅許の件で不成功に終った幕府の首まさよし席老中堀田正睦にかわって、安政五年四月南紀派の中心人物井伊直弼が大老に就任したことにより、一橋派、条約調印反対派は敗れ去った。四代将軍家茂の決定と日米修好通商条約の調印とが決定した。}れに対し斉昭が直弼を違勅の大罪と、江戸城に押しかけて詰問する騒ぎが起った。結果は「不時登城」の罪で斉昭の急度慎、関係者の処罰ということになった。斉昭は弘化元年の時と同じように、江戸駒込邸に謹慎となつh句、、、87・ヵこれに対して前回の時以上に雪寛運動が展開されていった。他藩の尊嬢派有志や藩士らとともに、領内の農民たちのなかから運動に参加する者が多く出た。尊嬢派・一橋派は安政五年八月に勅誌という形で、直弼の政治を非難する密勅を出すことに成功した。しかしこれに対し直弼は安政の大獄をあじまたてわきおこし、水戸の家老安島帯万や茅ノ根伊予之介、密勅に直接関係した鵜幕末・維新期の潮来地方飼吉左衛門・幸吉父子らを死罪にしたほか、多くの尊嬢派志士を処分した。斉昭はさらに江戸追放の処分をうけ、水戸に帰って城中に謹慎することとなった。万延元年(一八六O)三月三日水戸藩尊嬢激派の浪士桜田門外の変から筑波挙兵ヘら一八名は、桜田門外で登城途中の井伊大老を暗殺した。襲撃に加わったのは中・下級武士のほか神宮第5章たちで、天保改革以降神宮らは、尊撞運動の一翼をになう軍事力となっていたことがわかる。また浪士の背後に久慈郡袋田村(大子町)の桜岡家そ茨城郡河和田村(水戸市)の高倉家のような富豪たちが、軍資金の調達に尽力していたことは注目される。水戸領内では豪商・豪農たちも次第に天狗派か、保守門閥派との結びつきを強めていったのである。桜田門外の変は水戸と彦根の対立を増大したばかりでなく、幕末の歴史に大きな影響をあたえた。)の事件の背後で浪士らをあやつるのは斉昭であるとみられたが、その斉昭は同年八月十五日夜、永久塾居中の水戸城中で急逝した。尊援激派の行動を押えられる斉昭が死去したことは、内部の党争を激化させ尊援派の活動が潜行的なものとなり、文久元年(一八六一)五月の英国公使館襲撃、翌二年七月の坂下門外の変などに水これに対して保守門間派の激派たちへの戸浪士が主体となっていった。圧力は強まり、激派の多くは脱藩して浪士となり、小川、玉造、潮来、湊など各郷校を根拠地として活動するようになる。文久年間(一八六一1六一ニ)に水戸浪土らの尊嬢運動はいっそう活発化するが、元治元年(一八六四)三月二十七日町奉行田丸稲之衛門を大将に、藤田小四郎らによる天狗党の筑波挙兵によってその頂点に達した。小四郎とともに挙兵の中心的人物に安食村(出島村)の豪農竹内百太郎、出ハ倉村(出島村)の修験岩谷敬一郎らがいたが、ともに水戸藩南郡地方の出身者である。はじめ筑波に集まった同志はわずか百数十人であったが、V)の中には領内の郷校で生活をともにしながら、尊援活動を続けていた農村有志も多かった。主体である天狗党には藩士の次・三男が多く、カ〉オ1-ら活動家は壮士などとよばれ、変革意識を強くもっていた。そしてこれら尊嬢派の中に潮来郷校で学んだ者たちの参加もみられるのである。元治元年四月二日幕府は水戸藩に対し浪士らの鎮静を命じた。筑波勢(挙兵した天狗党のよび名、波山勢ともいう)は四月三日山を下り野州日光へ向かったが、幕命により臼光を警備する宇都宮藩兵らに阻まれ、447日