ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世光に駐屯することができず同十四日大平山(栃木市)に宿陣した。このころの筑波勢は約四OO人近くに増加した。五月中ごろになると筑波勢へ近の参加が増えたが、浪士らのなかには各地で金銭を強要する者があり、Wたとえば田中思蔵のように軍資金の調達や栃木の街への放火など、人びとに恐れられる者も出た。)の金銭強要についてはすでに文久元年ごろには潮来地方でも行われており、須田家文書(国立史料館蔵)の「文久元年辛酉御用留」には、次のような記事がある。差上申御受書之事去年以来玉造村郷校等之集会之者、村々え立入金策等申付、勝手困窮難渋之趣申立候者等ヲ、鉄扇或ハ万峯打等-一て為レ負ニ手庇一為ニ相悩(向文慮外径等之廉-一て於二道路一右同様之始末-一及候者、扱村々相札何村誰と申者何々之円U何月之頃たれと申者より、ヶ様之災難ニ逢候と申儀銘々取調否、早速書付ヲ以御役所迄可レ被ニ申出-候、以上九月十六日杉浦吉十郎庄司弥三衛門潮来町玉造大御山守方このように村むらの人びとに恐れられるような行動をとる者が出たことは、それだけ筑波勢の統制が困難になっていったことを物語るものである。大平山に宿陣した田丸・小四郎らの天狗勢は五月末から六月初めにかけて、ふたたび筑波山を目ざして移動をはじめた。この間水戸領内では保守門閥派が会合を重ね、天狗派に対して諸生派を名のり、やがて中間派(鎮派といった)の者らとともに南上して江戸に赴き、江戸藩邸を保守派勢力で固めた。藩主慶篤はこの諸生派に筑波勢の鎮圧を命じた。448幕府の追討軍とともに市川三左衛門が、約七OO人の藩士を率いて江戸を出発したのは六月十七日であった。いっぽう筑波山にたてこもった天狗勢は約一OOO人に増えていった。追討軍の一行は六月二十六日結城に到着し、七月五日追討軍の本隊と市川らの一隊約二五OO人は下妻へ進駐し、他の一隊約一五OO人が下館に進駐した。このほか笠間藩、高崎藩兵ら約二OO人が小山付近に、結城に壬生藩兵約三OO人が配置されて筑波勢を包囲した。追討軍と筑波勢の衝突は元治元年七月七日に、高道祖(下妻市)から洞下(つくば市)一帯にかけてみられた。江戸からあまり遠くない常総の地で戦闘が行われたから、当地方をはじめ常陸圏西・南部では大きな衝撃をうけた。しかも七月九日早朝には七日の戦いで敗退した筑波勢が、下妻の追討軍本障を夜襲する事件へと発展した。常陸地方での最初の戦闘であり、」れ以降戦場が水戸・那珂湊地区に拡大していく。下妻の戦いで敗れた諸生派の市川三左衛門らは水戸に戻り、水戸城を占拠して水戸にいる天狗党の家族らを虐待した。幕府は当時若年寄の田おきたかおきつぐ沼玄蕃意尊(田沼意次の子孫)を常野追討軍総括に任じ、諸藩兵の追討軍一万三OOO余をもって筑波を包囲させた。しかし七月二十日前後から筑波勢は山を下り、府中(石岡)、潮来、小川方面へ分散していった。江戸では八月四日水戸藩主慶篤が騒乱鎮撫のため、連枝(分家)の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に向かわせた。頼徳にはわずかな宍戸藩士と水戸藩執政の榊原新左衛門ら七OO余人が同行していた。途中小金宿(千葉県松戸市)で武田耕雲斎・山国兵部らも合流し、その数一OOO余人となった。}れが大発勢とよばれる一隊である。そしてこの大発勢と筑波勢が合流して水戸へ向かった。}の一行の中には多くの農民たちが