ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第5章幕末・維新期の潮来地方第V-78図下仁回戦争戦死者の墓〔下仁田町〕O人が追討軍に抗戦して善戦したが、九月半ば過ぎには追討軍有利の体平磯(ひたちなか市)に布陣した。大ひらいそ発・勢筑波勢・潮来勢など約三00の館山に陣し、田丸・小四郎らの筑波勢や別行動をとってきた潮来勢はたてやま頼徳は那珂湊とその付近を紡備し、武田耕雲斎は別隊をひきいて那珂湊九月一日追討軍は那珂湊、磯浜(大洗町)を攻撃した。これに対し松平になって攻撃を加えてきた。いる幕府追討軍も水戸から那珂湊へとせまり、市川派の軍勢といっしょいは八月二十日過ぎから拡大化されていった。このころ田沼意尊のひきはなかった。東茨城郡祝町(大洗町)や那珂湊の周辺で衝突がみられ、戦となった。しかし一行の那珂湊への進駐も市川派の妨害にあって容易で絶され、やがて那珂湊(ひたちなか市)へ移動すること那珂湊の戦いしたが、水戸城をかためる諸生派の市川らに入城を拒頼徳らの一行(大発勢と筑波勢)は八月十日水戸に到着参加していたが、潮来地方からの参加者もあったのである(第四節参照)。第V-79図和田峠の「浪人塚J(下諏訪町〕449