ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近IV勢となっていった。天狗勢の墓地〔敦賀市〕第V-80図松原神社境内のにしん蔵〔敦賀市〕いっぽう武田、山園、田丸、小四450郎ら筑波勢と潮来勢も那珂湊を脱出し一OOO人あまりの一行は那岡郡大宮村(大宮町)をへて、十月二十五日久慈郡大子村(大子町)に到着し大fこ子で武田耕雲斎を総大将とし、筑波勢が三隊、潮来勢が二隊に分かれて、京都へのぼって尊王嬢夷の大義を朝廷に訴えることとなった。V』の一行約一000人を西上勢とよぶ。第V-81図西上勢の大子出発は十一月一日であった。一行は大子を出発して下野、上野、信濃へとすすみ、途中下仁田(群馬県)と和田峠(長野県)で高崎藩・高島(諏訪)藩・松本藩とそれぞれ戦闘をまじえた。これ以降西上勢戦いが進むにつれ松平頼徳側は劣勢となった。追いこまれた頼徳は九は本格的な戦闘はなかったが、迫りくる寒さのなか追われる身の苦痛を味わいながら、中山道から木曾路へ入り美濃から越前へとすすんだ。雪はえぼうしの降る濃越国境の蝿帽子峠をこえ、寒さと飢えに苦しみながら十二月十しんぼ一目、木ノ芽峠をこえて新保宿(敦賀市)に到着した。新保に近い葉原宿(敦賀市)には金沢藩の永原甚七郎らが待ちうけてい月二十六日那珂湊を出て、江戸に赴く途中捕えられ切腹を命じられた。那珂湊に残っていた大発勢の中心人物榊原新左衛門らは、戦況が激化すそして追討軍るなかでしだいに筑波勢や潮来勢などと考えを異にした。を出て幕府軍に投降した。の総攻撃が行われる十月二十三日朝、筑波勢の反対をおしきって那珂湊だがこの降参人たちは捕われて各藩に預けらた。武田は永原の陣に一橋慶喜への嘆願書、始末書を託した。しかし慶喜は新保宿包囲の諸藩兵に対し、十二月十七日を期して討伐に出ることれ、慶応元年(一八六五)春ごろに多くの者が処刑された。を命じたため、武田らは最後の軍議を聞いて降伏することを決めた。同