ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

月二十日武田以下八二三人が金沢藩に降伏し、やがて敦賀の町なかの一ニつの寺に収容された。一八六五)一月降参人たちは金沢藩から幕府側にしんぐ勺に引渡されると、彼らは敦賀の海岸に近い一六棟の鯨蔵に監禁された。翌元治二年(慶応元年、一一月三日慶喜から浪士らの処分を任された田沼意尊が敦賀に到着し、だちに簡単な取り調べが実施されるいっぽう、翌四日から四回にわたって三五二人が斬首された。このほか遠島一三七人、水戸渡し二ニO人、構いなく追放一八七人、一五歳以下の少年一一人が寺院預け、という結果であった。こうして常総・下野地方で開始された水戸藩の天狗騒動は、筑波勢・大発勢の処刑など数多くの犠牲者を生んで一応の終末をみたのである。しかし水戸領内では西上勢が常陸国を離れるころ、実権をにぎる市川派によって領内の人びとに対し、天狗派非難や農業出精などを再三にわたって通達している。その触・達について前出の須田家文書よりみてみよう(「文久元年辛酉御用留」)。西上勢がまだ大子に滞陣し、追手との聞に月居峠付近で戦闘が行われているころの元治元年十月二十九日には、天狗派に同情したり加担する幕末・維新期の潮来地方者たちへの非難と、家業に精を出すよう次のような「触」を出している。近来郷中之者共家業打捨、猿-一国事之為杯申唱所々奔走集会等いたし、甚敷-一至候ては浮浪之徒-二味同心、尊王嬢夷を申立金銭を掠取、人民を悩し御大法-一振れ不二相済一所業之至ニ付、御追討被ニ仰出一候処、元来人々家業を守農民ハ農民之本業を勤、身心を顧ミ分限ヲ守、上を犯シ候体之義酬も無レ之様可-一心懸一儀、今日之道理-一第5章候処無ニ其義一市己ならす、却て其為一一善良之者共迄迷され、心得違之者も間々有之趣相問、甚以如何之事-一候、右等之儀-一付てハ深く御配慮被レ遊、此度御親書ヲ以御沙汰之趣も被レ為レ在候条、此段厚相心得面々勤農ヲ専一とし、御先成様より之御法度を守行状相模、分限を超候処業等決て無レ之趣法と心懸可申候、此上心得違御旨意一一背候もの於ν有レ之ハ、厳重可レ及ニ沙汰-候条得-主意一村中寺社門fこ前ニ至迄、無レ洩可二申触一候諸生派の藩庁では天狗勢が領内を離れると、家老佐藤図書らが城下付近の村むらを廻って歩き、天狗派に加担した者たちの取り調べ、諸生派加担の者たちへの恩賞の調査などを実施したが、それにさきだって次のような触を出している。少し長文ではあるが当時の風潮がうかがえるので紹介してみよう(須田家文書)。近比郷中風儀不宜其身上之分限を忘れ職業二忠り、却て身分不レ応浮説相唱兎角ニ上之御法度を軽シ、徒党ヶ間敷義相催又一時之がさつ勢をかり、重頭之振舞等いたし候ものも不少候、畢寛右様之弊風より自然昨歳之如き叛乱-一も至候事-一て、元来其身分を忘れ御法度を背き候邪心より詰り、其身之罪科-一落入、剰父母妻子迄難儀ニ為レ及候は誠-一歎ヶ敷次第ニ候、依ては自今以後右様之弊風ヲ吃度相改、面々者ハ能く其身之程々を考ェ、決して分外之事-一心ヲ不レ懸、農工商共-一有来家業をさへ専一ニ相励み候へハ、第一先祖え之孝行ニも相当り、軽き身分-一は上え之御奉公無-批上一筋ニて、自然其身之為-一も相成、妻子迄も安楽ニ世を送り候事-一候問、是等之趣克々勘弁いたし小前之者えも呉々も相諭し、此上浮説ハ酬も不レ申徒党ヶ間敷儀ハ舵度相止、尚又時之勢一一乗じ私之意趣造恨を以、人々悪事をいひふらし、或ハ己か欲心ヲとけへき為ニ、時々役人をそしり候様之悪風無之様いたし、万事共一一依枯偏頗なく村々和睦いたし、役人共ハ小前之ものを憐ミ、小前之ものハ役人共之申付を大切-一相451