ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第二節潮来郷校と潮来陣屋水戸藩では藩士の子弟の教育機関として、天保十二年潮来郷校と尊嬢派の集結(一八四一)に藩校弘道館を建設して仮開館したが、庶民教育のため領内一五の郷校を建設した。郷校は設立年次によって三つのグループに分類されているが(瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』)、潮来地方には二つの郷校が存在した(郷校については第四章第三節参照)。延方村に設置された延方学校(のち延方郷校)は文化四年(一八O七)の設立て小川村の稽医館とともにその設立は早く、医・儒学についての勉学が中心であった。もう一つの郷校である潮来郷校は、安政四年(一八五七)一月潮来村に設置されたもので、}の学校は玉造、大子、町田(水府村)、小菅(里美村)、馬頭(栃木県馬頭町)、秋葉、鳥羽田(ともに茨城町)郷校などと同じく、前藩主の斉昭が政界に復帰し、藩内で尊嬢派がふたたび勢力を増大した時期に設立されたものである。そして教室以外に武道場や射撃場幕末・維新期の潮来地方などを設け、教育内容も武術の訓練がとくに重視された。そして玉造・湊郷校とならんで潮来郷校が尊擦派の拠点となっていった。文久三年(一八六三)京都から戻った藤田小四郎らは、北関東の上野・下野を歩いて同志をつのり、軍資金の獲得に奔走しているころ、房総九十九里地方(千葉県山武郡)を中心に、楠音次郎(水戸藩士と称したが水戸藩とは無関係)ら草奔の志士たちが援夷と「世直し」をはかつて蜂起第5章した。十一月中旬のことで真忠組騒動とよばれる。川瀬教文著『波山始末』には「当時嬢夷の大義を唱へ同志を募り居る者諸所に在り、其最も顕はれたる者は上総茂原に於て楠音次郎、千葉源次郎等主領となり、数百人を集めたり」と記されている。また文久三年八月には佐原村の商人仲間の金銭問題の解決に、潮来郷校から木村孝之介(東禅寺事件参加者)、貞之介兄弟が派遣されたが、当時天狗の名前に恐怖心をいだいた村民たちが、木村兄弟を殺害するという佐原騒動ももちあがっている。郷校を拠点に尊撞激派の者たちが、軍資金獲得のために種々の運動をしていたことが、佐原村での事件のような騒動となったのである。文久三年から元治元年にかけては、幕府や藩はこれら天狗派の行動を極力おさえようとする方針をとっていた。元治元年二月に小四郎らは行動の拠点を府中(石岡市)においたと思われる。そして小川・潮来の聞を往来し、挙兵の件について安食村(出島村)の郷土竹内百太郎ゃ、宍倉村(同村)の修験岩谷敬一郎らと協議をかさねた。このころ小川郷校と潮来郷校には久留米藩浪士の権藤真卿、同じく池尻岳、出羽松山藩の藩医の子川俣次正、肥前島原藩浪士の伊藤嘉融、同じく梅村守などのほか、他藩の浪士らが駐屯していたという(高瀬真卿著『水戸史談』)。彼らは郷校を拠点に挙兵のための人集めや、軍資金調達の目途を探っていたのである。文久三年暮から翌年にかけて天狗組とか、水府浪人とか称する人びとが各地に出没し、富裕な商家や農家に対し押借(金品強奪)をくりかえしていた。これに対し藩庁では元治元年一月、「この頃水府浪人という偽名で、諸所で乱妨な行為をする者が少なくないが、」れについては領内の取り締り強化はもちろん、他領でも不法行為があれば厳重に処罪する(大意)」という達しを出している。しかしこのような達だけで乱妨な行為がおさまるはずがなかった。同年一月十三日多賀郡平潟村の回漕問屋で豪商の菊池半兵衛家に、453