ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近W「司~,I .;「水戸天狗組」六人が押しかけ金品を強要する事件がおこった。)こは454棚倉藩領であったから棚倉藩庁に届けたが、天狗組はすでに那珂湊へ行き、さらに稲吉宿(千代田町)で逮捕された。この事件の記録(「波山記事」)によると、平潟の菊池家へ押し入ったのは「木葉天狗」であって、「大天狗」はそれぞれの居宅におり、「中之天狗」たちが潮来近辺に屯集している、と記されている(『水戸市史}のように潮来地方中巻田』)。には、尊嬢派有志の者たちが数多く集まる傾向がみられたのである。浪士らが駐屯した線本寺〔鹿嶋市〕また文久三年十一月には鹿島郡下生村(鹿嶋市)の根本寺に、倉川三郎、鈴木秀太郎、桑谷元次郎ら二O人ほどが集合し、「報国赤報隊」を名のって同志を集めた。やがてその数一O O人ほどになり、鹿島神宮の境内に神武館という道場をつくり気勢をあげていた。根本寺の門前に「大神武館報国正義隊当分屯之」の携示杭を建て、神武館では「報国嬢夷の祈願」を行った。また排仏行為として根本寺の仏像の首五つを、巣首のようにとりあつかった(前掲書)。幕府は元治元年一月関東取締出役の馬場俊蔵を潮来方面へ派遣した。第V-82図常総地方の浪士たちの行動をおさえるのが目的で}れに水戸藩士の住谷信順(寅之介)も同行した(同前)。いっぽう一月二日に水戸に下向していた武田正生(耕雲斎)が登城して浪士らの鎮定に関して評議した。武田は南郡の郷校を拠点として活動する尊嬢派の者たちを鎮定する目的で水戸に来たのである。だが南郡方面の事態は深刻化するばかりであった。このころの南郡の郷校の運営はすでに藩庁の統制をはずれていた。郷校の責任者である館守の任命も行われなくなっていたらしく、林以徳・正徳兄弟が南郡郷校取り締りのため派遣されたが、すでに彼らの手中に一はおさまらず、小川郷校は竹内百太郎、潮来郷校は岩谷敬一郎の両人が取りしきっていたという(『水戸藩郷校の史的研究』)。竹内・岩谷ともに天