ブックタイトル潮来町史

ページ
467/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている467ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

狗党の筑波挙兵に参加する者で、当時は激派の中心人物であった。ころ南郡郷校を拠点に活躍する「大将分」は、竹内・岩谷のほかに太宰清右衛門(もとは奥州伊達郡出身の商人、竹内との交流で安食村に移住し、水戸藩に献金して郷土となる)、宮本主馬之介(田伏村H出島村の神官)を加えた四人であった。潮来郷校や小川郷校など南郡の郷校は文久三年末から元治元年には、水戸藩領の農民有志を教育するという目的からはずれ、全国的な尊嬢運動の一拠点となったかの様子であった。その一例として潮来郷校に拠った前述の川俣次正(茂七郎、出羽松山藩医の子)が、武州阿賀野村(埼玉県深谷市)の桃井儀八という者へ送った書簡に、当地方のことがよく表れている(『水戸務史料』下編巻十二)。十二月廿七日江戸出立水国へ馳下候処、当国之儀は他国と相違、更に嫌疑も無レ之正義之士も不レ乏、公然と議論も出来候様にて、何歎別世界へ居候様心地致し申候、其上万端丁寧過分之取扱にて、当正月六日潮来と申地へ一同相移潜居仕候、当時水領之内にも数ヶ所へ有志党数百人相屯、如何にも盛成体に相見申候当時水戸領では他領の者であれ疑うことなく居留が可能で、尊嬢運動幕末・維新期の潮来地方に関する議論がさかんに行われている。自分たちは(元治元年)一月六日に潮来に移って潜んでいる。何か別世界の様な感じさえするが、水戸領内では数か所に多くの尊嬢派が集結している、とのぺているのをみれば、潮来郷校にも激派の者が集まってきていたのであろう。武田耕雲斎は藩命によって水戸に下向するや、ただちに潮来・鹿島地方に出張して、前述の鹿島神武館隊の鎮撫を行った。神武館隊員の中に第5章は武田の説得を待たずに潮来郷校に戻った者(一八人)もいたが、残りのいきさ者たちは武田の説得に応ずるのを潔よしとせず、数十人がふたたび根本の寺に集まって気勢をあげた。そこで南郡の取り締りの任に当っていた林以徳が根本寺に赴いて、鹿島から離れて水戸領内の潮来か、那珂湊へ移動するよう説得した。さらに林は潮来・小川郷校に拠る一隊を率いて、根本寺と神武館にあった携示杭などを取り払い、武器を押収して神武館の騒ぎを鎮めた。武田耕雲斎の提言で元治元年一月末、潮来の地に潮潮来陣屋の設置来鎮台(陣屋ともよんだ。潮来地方に残された史料では陣屋である)と称する役所を新設することとなった。『水戸藩史料』(下編巻十二)には一月二十二日、「潮来鎮台ノ議決ス」として次のように記されている。武田正生潮来に出張して説諭する所あり、壮士燦然として馴服す、す包わひきゅう乃ち更に鎮台を潮来に設置し、以て経称勇敢の士を養ひ、国家緩急の用に供せんとの議決す藩では一月二十九日付をもって潮来鎮台用掛に林以徳(忠左衛門)、林正徳(五郎三郎)を、郷中取締掛潮来陣屋詰に郷土田尻知好(新介)、黒沢紋三郎らを任命した。鎮台は弁財天山とよばれた島崎故城跡の小高い場所に建てられることとなったが、この場所の選定は武田が、湖上からよく見える所というので決定したという(『水戸市史中巻田』)。陣屋の建設に関して須田家文書(国立史料館蔵)の、「文久四年子正月潮来御陣屋御創建御用留」(「創建御用留」と略記するが、特に注記しないのはこれによる)と、大洲地区に残る史料の「文久四年御用日記留」(「日記留」と略記)とによって、その概要をみてみよう。潮来陣屋新設のため二月初めに出張してきたのは武田耕雲斎をはじめ、御目付方の丹羽恵介、岡里藤介、奥裕筆頭取の鮎沢伊太夫、長谷川作太455