ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
すると、次のような記事がある(「創建御用留」)。一、御陣屋地所決定ニ相成、造営御懸ニ付てハ地祭式早速執行可ν致旨武田殿より御達有レ之候処、潮来御領神職無レ人ニ付、下玉里村瀧平主殿、田伏村宮本主馬之介へ被二仰付一候問、官服用意早速潮来村え罷出候様二月十日両人へ相達候事一、同十二日夕、主馬之介ハ不快ニ付名代停頴之介其余左之名前之ものニて相勤候旨、瀧平主殿等より申立有ν之-一付、七丁目島田ヤへ宿申付候事陣屋建設の地が決定するや、その土地のうちの民有地の買上げなどをすすめる一方、普請掛を任命するとともに「地祭式」(地鎮祭)の準備が急がれた。「地祭式」は祭主が下玉里村の瀧平主殿、告戸主が小川村の橋本願之介、小塙村の小塙源治、田伏村の宮本頴之介の三人、祭事執行が安食村の宮根求馬、神部が浜村の箱沢内蔵之介、庭中執行が田伏村の岩谷健志、清水村の春雅楽之介という顔ぶれで、瀧平らの推薦によったものである。陣屋の敷地は平地より八間(約一四・四メートル)ほど高い土地で、正面に一部二階建てになっている御殿と称された建物、その他武館と称す幕末・維新期の潮来地方る長屋二棟が建てられ、丘の中腹に弁財天があった(『水戸市史中巻回』)。}の御殿について「創建御用留」には、一、御殿御建可ニ相成一場所大図拾五間四方地ならし致、四方之角え笹付竹を立、〆縄を張候事御郭内東西南北之角へ壱間四万戸一地ならし致置候事て御門を御立可ニ相成一地所は御門之祭有ν之趣-一付地ならし、御門付第5章之地幅可ニ相成一場所大図見斗、笹付竹弐本左右へ立〆縄を張候事とあって、御殿建設の場所は一五間(約二七メートル)四方の地を平らにならし、その四隅に笹竹を建てるよう指示されている。そして工事は工事か所ごとに請負制がとられたようである。二月二十五日の記事には次のような記述がある。一、潮来村へ御陣屋御創建-一付、御役御出張地所御決定相成候上ハ、至極御急て道其外両表御長屋井御囲土手之義急速為相初様御建一一付、諸職人各用積御材木取又ハ御買上材注文等、取調之上夫々申付、御長屋地形等受負一一申付相初、其外土手築立諸職人仕事師等入、日雇一-一可レ仕様分も有レ之、庄屋宅より通ひニ出張之上立合居候処、諸事不弁理ニ付、出役井村役人詰所御小屋急速為ニ取掛一置候処、今日出来上リニ相成候事て右御詰所御ふしん仕上一一相成、其外井戸之義も壱ケ所是又掘上ニ相成、存外出水-一て弥成就いたし、尚文職人人足並ハ打続骨折、芳励之為御酒被レ下一一取扱候事工事を急ぐために請負制をとり、さらに監督のための役人や村役人のために、詰所小屋を建てたことがわかる。また陣屋内に井戸を掘り、用水の確保がはかられた。請負制を裏付けるものとして「日記留」にも、次のような記載がある。此度潮来御陣屋御普請、御長家弐棟は大工受負相極り候へとも、其外ケ所々々ニて御受負被ニ仰付一候棟数有レ之候間仕手間仕候、棟梁円以上U明廿二日右御普請場御役所へ差出し候機可ν被レ成候三月廿一日大御山守丹後石田同須重作田陣屋の建設には多くの木材その他を必要とした。藩士の「石河明善日記」に「潮来陣やハ大いそきニて諸懸リ何程を不限、材木は江戸より買入候よし」(『水戸市史中巻回』)とあるように、江戸その他から買入れた457