ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世ことは「創建御用留」にも数多く記録されている。また当地の史料である「日記留」にも四月十二日の条に近御陣屋御普請太縄、細縄とも御用ニ付御買上一一相成候条、村々有高取調明後十五日迄ニ、右御普請場御役所へ無二延引-申出候様可ν被Nレ成候とあることからも推測することができよう。資材の買入ばかりでなく工事人足の動員も再々行われた。「日記留」にも二月から六月ごろにかけて、人足動員の記録がみられる。そしてこのような材料費、人足賃のためにかなりの金額が必要であったから、たびたび藩庁から金銭が届けられた。工事の開始に先だって元治元年一月十七日にはて政府より御下金千両寺門辰太郎持参候て預り置候事と一000両の金が準備されていたこともわかるのである。こうして陣屋建設は急速にすすめられ、四月二十一日には上棟式を迎えるまでになった。「創建御用留」に次のような記述がある。四月廿日両表御長屋弐棟共上棟相成祭儀備物等諸職人等え御酒被レ下、タ口ツ頃無ニ御滞一相済、一統御場所引払候事五月十四日には物見も上棟の運びとなり、}のころ長屋もほぼ完成をみたようである。ただまだ塀が完成しておらず、「見処も不レ宜」る景観であると「創建御用留」にみえている。工事は六月になっても続けられた。六月二日には「御陣屋御普請御用召仕候条」と、大洲村に六人の人足をさし出すよう通達があった(大洲新田「御用日記留」)。その際持参すぺきものとして「鍬、万のふ、弁当」とあるのをみると、}のころは陣屋の周辺整備でもあったのであろうか。さらに六月二十四日には人足五人の動員があったが(同上)、それについては「圃園御陣屋御普請当分御休ミニ相成候-一付、御材木取片付御用御召ニ相成候」とあって、ほぼ陣屋建設が終ったことを示している。458}のように潮来陣屋は短期間に設置された。)れは幕府が小川・潮来・湊の三館に屯集している激派の行動を監視させるために、武田に対し豊富な資金の援助があってはじめて出来た事である。江戸から材木を運ばせたということも、資金があってのことであった。資金援助については、文久三年十二月末に武田と閣老との会談が、田安御殿で行われた}とが知られている(『水戸市史中巻回』)。