ブックタイトル潮来町史

ページ
471/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている471ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

第三節潮来勢とその動向武田耕雲斎の主唱によって潮来陣屋の新設が行われた潮来勢の成立)れによって水戸領南部における尊嬢激派の「鎮治宝撫」が成功したかというと、事態は逆であったといえる。前出の「石河明善日記」によると、陣屋建設について当時の執政岡田徳至(信濃守)らは反対であり、陣屋は幕府に委されたということで、武田が勝手に建設したものという(『水戸市史中巻回』)。たしかに陣屋建設は幕府から鎮撫を依頼された耕雲斎が、藩主を動かし幕府・藩から建設費を出さして、独断で実行したのであった。その上鹿島神武館隊を解散させ(形の上だけ)、陣屋建設が決まると耕雲斎は鎮撫は一応成功したものとして、二月十日復命のために江戸へ戻った。だが武田の判断とは異なり、鎮撫は成功したといっても潮来には藩主公許の屯集所が新設されたようなもので、激派の者たちは勢づいたというのが真相であった。「石河明善日記」の二月十四日の記事に、「潮来え幕末・維新期の潮来地方追々諸方之浮浪加入を願、武田此問中居候中ニ、六百人より五、六日之間ニ九百人一一及」んだとあるように(前掲書)、当初六OO人が潮来地方に集まった。それが耕雲斎が潮来に滞在している五、六日の聞に、九OO人にもふくれあがったというのである。」の数は潮来陣屋だけの数なのか、陣屋と郷校とに屯集した総数なのかは不詳であるが、多分に陣屋・郷校両方の合計ではなかろうか。それにしても九OO人という数が第5章潮来に集まったというのは、当地方の尊嬢運動の激しさを示すものである。当時小川郷校には竹内百太郎、宮本主馬之介、太宰清右衛門、岩谷敬一郎らを中心に八OO人、湊郷校には永井芳之助、前野謙介らを中心に五OO人の尊壌派が結集していたという(『水戸市史中巻回』)。従って南郡には数多くの尊嬢派の屯集がみられたのである。ただこのうち小川郷校を拠点とする藤田小四郎らは、潮来陣屋(鎮台)の統制に必ずしも服従しなかったらしい。二月八日幕府から鎮撫の実効を問われた耕雲斎が、ふたたび小川郷校に赴いて激派の者たちを懐柔しょうとはかった。「武田耕雲斎は鎮撫トシテ下リ候処、其見込ハ金ヲ以テ喰シ、甘ク取鎮メ候様子」と、記述されている(「波山記事」)ことから推測されよう。潮来には陣屋と郷校とが近くにあったから、多くの尊嬢派の者たちが集まってきたことは前述のとおりである。もちろん潮来地方の村むらからの参加者もあった。参加者については第四節(争乱の犠牲者たち)に詳〆、号、A、1LL.ヵここでは慶応四年に藩庁が騒動参加者を取調べた際の記録を、「大洲新田御用留」よりその一例として紹介してみよう。百姓甚兵衛年三十八歳是ハ去ル亥ノ九月中潮来館え加入仕、行衛死生共相知不申候このような農民身分でも郷校勢に参加し、慶応四年四月ごろになってゆくえも生死や行方とも不明なのである。潮来に集まりまとまった勢力として活動していくのが、潮来勢とよばれる一団であった。小四郎らによる天狗党の筑波挙兵は元治元年三月二十七日に行われた。天狗党が日光から大平山駐屯をへて、ふたたび筑波山に戻ったのは六月上旬で、やがてその勢力も一O OO人という数に増加した。筑波勢は七月初め下妻での戦いのあと、その大部分が諸生の市川派と戦うため山を下りたのは七月二十四日で、筑波山から府中、小川、潮来へと屯集して459