ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世この間に水戸城と城下は、下妻の戦いで敗れた市川勢によって、っ,-。、UチJ完全におさえられた。七月下旬から八月上旬にかけて城下付近の農村で近は、自衛のための農兵隊が組織され城下に参集し始めている。とりわけIV鯉淵村(内原町)を中心に周辺三O余か村で組織された鯉淵勢ゃ、河和田村(水戸市)中心の河和田勢などが知られる。いっぽう江戸では藩主慶篤が水戸領内取り締りを、支藩の士ハ戸藩主松平頼徳に依頼し幕府の許可もBつけた。八月四日頼徳は宍戸藩士数十人と、本家水戸藩士約七OO人を率いて江戸を出発した。」の一団が大発勢とよばれるものである。)の頼徳一行に途中から武田耕雲斎や山国兵部らの一隊が合流し、大発勢が水戸に着くころには一二000人余にふくれあがっていた。頼徳一行は水戸城南の台町薬王院についたが、そこからは市川派の妨害にあって水戸城へは入れなかった。両軍の対立は緊張し一触即発の状態となったため、頼徳は水戸城下を戦乱にまきこむことを危倶して、ひとまず那珂湊へ移動することとした。筑波勢・大発勢が那珂湊へ進発したのは八月十六日潮来勢那珂湊ヘで、要所を守る水戸藩兵との聞に激しい銃撃戦をくひんかくこの戦いで湊御殿ともよばれた貴賓閣りひろげた。も焼失した。十七日に頼徳は磯浜海防陣屋(大洗町)から湊郷校に宿所を移した。そしてこれからしばらくの問、水戸藩兵との戦闘が所々で行われたのである。八月末それまで小川郷校にいた田丸稲之衛門、藤田小四郎らが筑波勢をひきいて平磯村(ひたちなか市)へやってきた。さきに頼徳一行とともに湊攻撃を行ったのであるが、そのあと小川へ戻っていたそしてそれとほぼ同時に林正徳(五郎三郎)を大将とする潮来勢が、平磯村へやってきて駐屯した。潮来勢の那岡湊周辺での戦いへものである。の参加である。潮来勢の戦いぶりについて『水戸幕末風雲録』より抄出してみよう。460ぺつどうたい波山勢と潮来勢とは最初より湊には来らず、別働隊として平磯に在ったが、幕軍が笠間付近より南下せんとするを聞き、藤田小四郎、飯田軍蔵、須藤敬之進、三橋半六、中村親之介、畑筑山、竹内百太郎、尼子久次郎等の波山勢は、林五郎三郎、井田平三郎、朝倉源太郎、平野重三郎、国分新太郎、鈴木秀太郎、荘司与十郎、米川隼人等の潮来勢とは敵を牽制するためか、九月三、四日頃前後して平磯を出発して北進し、僅かに千三百の味方の兵を以てして、二本松藩の千二百人、宇都宮、壬生両藩の千八百人、福島藩及び市川勢の千五百人の大兵に当り五日は額田村の敵を破り之を占領し、七日幕兵の額田に逆襲せるを林五郎三郎、飯田軍蔵等之を逝えて戦い、終に敵将寛介太夫を傷つけ、其の他敵軍に多大の死傷を与え、捕獲品また頗る多く、越えて九日宇都宮藩兵の敗走して田彦(ひたちなか市)まいそうに留るを聞き、藤田、飯田、竹内等の波山勢六百余人は昧爽額田を発して田彦に殺到し、潮来勢また後れて田彦に至りて宇都宮兵を包回し、斬首八十二級、捕獲の大砲十門に及び、味方の戦死僅に二人、たいしよう負傷者五人に過ぎずという大捷を博した(後略)。七日の額田村での戦いについて『水戸幕府風雲録』では、「伊藤記」九月七日の項を引用して、次のように記述している。寛助(介)太夫大将として追々額田村に押寄すべき様子、大砲十三、四挺打ならぺ厳重相掛り候に付、正兵は林五郎三郎其勢僅に二百人余に、奇兵は仲村新之介其勢六十人余にて、上町街道より裏切り廻る敵方にて厳重打掛け、味方二百余人畑原八方へ一と押に切込候にあた付、大砲に中り候もの一人も之なく敵の旗色ひるむ処へ、裏手より仲村新之介切込み候に付、逃様も之なく途方にくれ候を、尚突ふせ