ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

切伏せ候に付、敵いずくともなく逃去候、分取の品死骸相改め候処、寛助太夫は親子ながら砲庇にて逃去候え共、途中にて討死、其余物頭四人、其外二十七人、都合三十三人打取り、分取りの品在に四寸径大砲三挺、一貫巨大砲一挺、百目大砲五挺、小砲十挺、七匁玉二千八百、百目玉千百箱入、四寸径玉五十八一貫目玉三十五、御紋付箱三箱、車付たんくはれしょ三車、弓矢二組、合薬二箱右林五郎三郎分取(後略)那珂湊での戦いが九月初旬激しさを増していったころ、潮来地方では追討軍の勢力が潮来に残る尊纏派より優勢となっていった。元治元年の一一月ごろから郷校や陣屋に集結した潮来勢のうち、主力が那珂湊の筑波勢、大発勢と一緒になったのであるから、それは当然のことであった。そして幕府の追討令によって出動した、麻生藩や佐倉藩の兵力が潮来に幕末・維新期の潮来地方第5章向けられ、九月になるといよいよ潮来郷校・陣屋への砲撃が行われることとなった。郷校に対する砲撃は九月六日、佐倉藩と協力した麻生藩勢によって行われた。麻生藩は潮来町の郷土榊原家の家敷地に障を構え、ここから郷校に向けて砲撃して壊滅、炎上させた。おそらくこの時に潮来陣屋も砲撃により焼失したと恩われる。陣屋はその施設完成後約三か月にして焼失したのであり、多額の経費をかけて建設したものの、何らその目的を達しないばかりか、逆に尊嬢激派の拠点の一つとなってしまったのである。潮来勢の那珂湊での戦いは戦況の深刻化とともに激しさを加えていった。『水戸幕末風雲録』の「大貫(大洗町)付近の戦闘」では、次のように記述されている。潮来勢は糧食を徴集する目的を以て十六日(九月)行動を起し、林五郎三郎を陣将とし、井田平三郎、朝倉源太郎、鈴木秀太郎、国分新太郎、平野重三郎、米川米吉、高松与四郎、萩原造酒之介、舟橋与十郎、前木六三郎、加藤木新十郎、前島徳之助等精鋭二百七十余人大生原に建つ犠牲者の墓をすぐって前進し、大貫より澗沼川を渡り島田(水戸市)を経て大場(同上)に至りし時、はしなくも幕軍と衝突したが、苦戦の後漸く之を撃退し、十七日は幕軍の大挙して大貫に来襲せるを迎え撃ち、十八日にも富士山(大洗町大貫)付近にて小競合あり、十九日佐倉勢の山を下り進み来ると、林五郎三郎これを迎え自ら身を挺して敵陣にたまたま敵弾其の股を貫きて壮烈なる戦死を遂第V -84図突貫せんとする際、げたるより、二十日、二十一日に百万其の弔合戦として潮来勢の意気大に揚り、先ず佐倉兵を破り、次で棚倉兵を破り、二十二日の天明、高崎兵の陣営を襲うて大捷を得、終に敵の首級二百余(棚倉兵ぇ百余、高崎兵四十余、佐倉及市川兵六十余)を獲(中略)幕軍は終に461