ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世潰乱するに至ったが、二十二日更に大挙して磯浜に殺到し、再び火を放ち(中略)己むを得ず磯浜大貫付近の地を捨てて那珂湊に退却し近(後略)W潮来勢の指揮官であった林は佐倉藩勢との戦いで戦死した。このあと潮来勢を指揮したのは井田平三郎と朝倉源太郎であった。そして井田・朝倉に指揮された潮来勢は九月後半から十月にかけて、筑波勢とともに幕府軍との聞に交戦を続けていった。幕府追討軍は十月になって総攻撃をくりかえしてきた。}のため那珂湊に陣する筑波勢・潮来勢ゃ、追討軍の側からも戦死者、負傷者が数多く出ていった。そうしているうちに大発勢を率いてきた松平頼徳が戦那珂湊の脱出列を離れやがて幕府軍総攻撃を予告された十月二十日榊そ毘主主明間口率筑L波久勢天潮妻木が勢那も珂那湊珂を湊脱を出あすとることとなった(第一節参照)。に、大子方面へと向かおっこととなったのである。小四郎らは「刻一刻と幕軍の乗込み来る時刻に迫るより、免に角一日一北方に退却し、後図を議せんとて、二十三日早朝八百余の部下を率いて館山を出発した。市して一方井田、朝倉等二百余人の潮来勢も二十二日夜和田の台場の陣営を出て北進し、二十三日の未の刻両部隊は南酒出村(那珂町)にてはしなくも出会い」(『水戸幕末風雲録』)、一OOO余の一隊が大宮から大子へと進んでいった。那珂湊を離れる時の潮来勢の数は二OO余人であったわけで、}れが筑波勢とともに京都をめざして西上するのであった。大子宿(大子町)に宿泊した一OOO余人の一団は、十一月一日武田耕雲斎を総帥に京都めざして出発した。}れが西上勢とよばれるものである。この時潮来勢は正武、義勇の二隊に分かれて隊列を組んだ。西上勢一行の組織、隊列は次のとおりである(前掲書)。462新保の宿本陣跡〔敦賀市〕第V-85図