ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

総大将武田伊賀守大軍師本陣田丸左京輔天勇隊長須藤敬之進虎勇隊長竜勇隊長筑山正武隊長畑義勇隊長朝倉弾正奇兵隊長西上勢に加わった潮来勢は那珂湊の戦場と同じく、井田好徳(平三郎)武田魁輔山国兵部翼藤田小四郎竹内百太郎山形半六井田因幡と朝倉景行(源太郎)の二人の指揮のもとに行軍することとなった。そして下仁田(群馬県)、和田峠(長野県)の戦いなど、武田耕雲斎、山国兵部このあと一行は中山道から木曾路に入り、の指揮のもと高崎藩兵ゃ、松本・諏訪藩兵と激戦をまじえたのである。さらに越前へと出て十二月十一日新保宿(敦賀市)に着き、やがて加賀藩に降伏したのである(第一節参照)。この敦賀新保宿で滞陣している聞に画かれたという、須木直正筆の直正と花押があるが、「武田耕雲斎肖像」画が敦賀の地に残っている(口絵参照)。絵の右側に}の直正は須木藤助のことであり潮来の出身である。現在の町役場の戸籍によると、本籍地は「潮来町大字潮来五番屋敷」である。藤助(敦賀では藤介とし、耕雲斎と行動をともにしていた幕末・維新期の潮来地方と伝える)は文政十年(一八二七)五月十日の生まれとなっている。から数えると天狗騒動の元治元年(一八六四)は三七歳である。死亡は明治四十二年(一九O九)十二月十日であるので、八二歳で死去した計算にないので、藤助の生いたちゃ思想的背景、なる。現在潮来に住居する須木家には藤助の生涯を知る史料は残っていまた天狗騒動で無罪となった第5章のであろうが(あるいは入牢後許されたのか)、それにしても彼は騒動に参加する以前、潮来地方のどこその後の生活ぶりなど全く不明である。かで、誰かに絵の勉強をしたのであろう。敦賀に残る一幅の絵が藤助の足跡を知る唯一のものである。潮来勢のうちその行動が判明する人びとについては、第四節に記されているとおりである。行動の判明する人はそう多くはないし、足跡のわからない人びとは歴史の中に埋ってしまって、現在それらを明らかにすることはできない。オも463