ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

是ハ去ル七月波山へ加入仕、行衛死生共相知不申候百姓甚兵衛、年三十八歳是ハ去ル亥ノ九月中、潮来館え加入仕行衛死生共相知不申候この史料によれば争乱に参加した農民のうち、了平のように元治元年、小金(千葉県松戸市)に出立した後、江戸から水戸に向かう松平頼徳に従い那珂湊周辺の戦闘に参加し、そのあと戦線を離脱して逃げ帰った者、あるいは久次、春吉、民蔵、良作のように、小金に向かってからしばらくして、病気その他の口実を設けて集団から離れ帰村した者、勘衛門、甚兵衛のように筑波勢、潮来勢に参加して各地で転戦し、慶応年間になつでも帰村せず、行方不明となっている者などがいたことがわかる。帰村した者は、十月から十一月にかけて自訴しているが、}れは市川三左衛門ら門閥派による藩庁が幕府、諸藩の支援を受け、天狗派を弾圧した際に農村の安定をはかつて、天狗派に参加した者たちを赦免するという、農民統制の政策に拠るものと思われる。門閥派は争乱を鎮圧すると、自派の勢力拡張をはかる一方、農兵と郷校の廃止を実施している。農兵と郷校は尊嬢派が最も力を注いだ軍事・幕末・維新期の潮来地方第V-88図『水戸藩死事録』第5章教育体制であったため、それらを廃止することにより、門閥派に有利な農村支配の強化を目指したのであった。そしてこの施策を徹底させるためには、農民が所持する武器武具などを藩が取上げること、各村から天狗派に参加した者を調べ、同時に争乱の鎮圧に協力した者、すなわち「賊徒追討」の功労者を調ぺて賞罰をあたえることにより、農民によるぺき指針を示すことなどが必要であった。元治元年九月に各地に出された布達では、「領域の農民が争乱中多数南発したが、大部分は強制されて止むなく参加したのであり、現在これを後悔している者については、帰村を許可するから、村役人付き添いのうえ、評定所へ出頭して吟味を受ける」ょう指示している(『水戸市史中巻間』)。また勘次郎、幾太郎の両名は、元治元年四月に京都に赴いている。v}れは水戸藩が、横浜鎖港問題をめぐり朝廷に工作していた時期にあたり、天狗派も岡山藩主池田茂政(徳川斉昭九男)などを通じ、鎖港先鋒の勅命を得ょうと働きかけていた。また勘次郎は慶応四年、市川三左衛門ら反天狗の門閥派討伐の勅書が下された際、在京水戸藩士の鈴木重義らに従ぃ、勅書を護衛しつつ水戸に向かったものと思われる。『水戸藩死事録』にみえる天狗派の人々明治になって編纂された『水戸藩死事録』には、安政六年から明治二年にかけて死亡した、水戸藩尊援派H天狗派とみなされる人びとについての記載がみられる。当町域における争乱参加者について抄出すると、以下のとおりである。囚中病死及ヒ赦還ノ後下獄病死ノ者関津彰善孫作ト称ス、行方郡延方村農慶応二年八月五日死ス年四十五。各地一一闘死スル者内山平吉て一清吉行方郡潮来村農、九月二十日舟幡清忠一一属シ、467