ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第五節近代への歩み慶応三年(一八六七)十月十四日第一五代将軍慶喜は、新しい時代を迎えてし大政奉還を申しでた。に日に高まる京都での討幕の動きに先んじて、朝廷に対それは土佐の前藩主山内豊信のすすめをうけてのことであったが、慶喜や山内らは従来の将軍独裁から雄藩による連合政権の樹立をめざすものであった。王政復古の大号令が出され、だが十二月九日にはさらに同日の小御所会議の結果幕府の廃絶であった。と、慶喜の辞官納地が決定された。二六O余年にわたる幕府支配の終末明治元年(一八六八)一月鳥羽・伏見の戦いより始まった戊辰戦争は、茨城地方にも影響をおよぼしたが、潮来地方を含む水戸藩領域では、天幕末・維新期の潮来地方第5章慶応4年「大洲村御用留」第V-89図狗騒動の余波で中央政界の動揺とは別の混乱が続いていた。「慶応四年大洲新田御用留」によって、当時の当地方の動揺の様子をみてみよう。一一月十六日「吃と申触候」としてこわこのごろ郷中では心得違いの者が出てきて、他人の家を控すような日動きもあるという。)のような狼籍ぶりは甚だ以て困ったことである。「御国恩之程真実に相弁」えるならば、こんなことは出来ないぜいことである。朝廷の有難いご配慮を考えるならば、「御領内一統静υつ誼」にしてお上の尊慮をも安んじ奉ることが第一である。万一心得違いのことがあっては申訳けないことであり、そのためにも村役人たちは十分に心がけ、小前百姓の者たちをよくよく説得しなくてはならない(大意)。これはこの年水戸藩主慶篤が帰国の予定であったから、それに先立つて出された触なのである。潮来地方では具体的な例はないが、明治元年くみに藩領北部の久慈郡などでは諸生派に与したとみられる家が、打ちこわしにあっている。四月になって当地方の大山守が交代している。それは次のようである。牛堀村須田源之允、寅大御山守御免、潮来村石田丹後え大御山守被二仰付一其村々扱相達候条其旨相心得、早々順達可レ被レ致候、以上四月十日つまりこれまで牛堀の須田氏が大山守役をつとめていたが、慶応二年すでにその役職を解かれたのに、ようやく明治元年になって潮来村の石田丹後が、大山守役に任命されたのである。一年以上交替による新任が行われなかったことを示している。役人の交替も順調に行えなかったばかりでなく、明治元年の五月ごろ471