ブックタイトル潮来町史

ページ
485/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている485ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

藩からの指示や伝達は村むらの順番を決めて、継立てをもって回覧する手筈であった。それが廻ってくると庄屋がこれを写し取り、村人たちに伝えるという仕組みであった。その継立てに遅れがでては伝達が早急に行えないのは当然である。藩政がきちんと行われている時代には、のような回覧の遅滞などおこらなかったことである。幕府が消滅した新しい時代には、村役人層にも気持の変化が出てきたことを示すものといふんト4Aノ。明治元年は大洲地方では洪水に見舞われ、種籾にも不足する状況であったから、村では九月に一OO両、十月に一五O両の都合二五O両を拝借したい旨藩へ願い出ている。時代が変化する時に水害では、人びとは安心することもできなかったであろう。拝借金願い出の理由として、次のようにのぺている。:・閏四月中旬より追々出水-一て、村方田畑共一円水腐仕取実更々無ニ御座一種籾之儀も凡籾五拾石程用意無レ之候てハ作立相成兼候-一付、以-詰縁一夫々才覚仕候得とも(中略)近村組も同様水腐ニて調兼、無レ拠九月中御拝借奉願上候、然ル処無レ程御大変出来奉恐縮候-一付、村方相応之者相撰来春耕作之扶食、今度御救として示談致置候分幕末・維新期の潮来地方及ニ無心三過半は種籾出来仕候得共、外弐拾石も買入手当仕度、E十月中水難御拝借奉ニ願上-候義も、前年より御拝借辻御返納芳極窮人共、日々経営凌方不レ忍レ見、御瑚柄をも不レ奉二恐察-再願仕候(後略)明治元年辰十一月大洲村与頭石津真衛門第5章この年は閏四月よりの洪水で、田畑の作物は全て水腐となってしまい、とくに種籾については五O石程用意しないと、来春の植付けができなくなってしまう。そこで近隣の親類縁者を頼って種籾の確保をはかったが、どこも水害がひどく籾が手に入らなかった。そこで九月に種籾買入金の拝借願をした。しかし藩でも大変な事がおこって(弘道館の戦いなどをF}指すのであろう)いるので、村中で相談の上種籾半分はそろえることができた。だがあと二O石程が必要である上、十月には水害にみまわれたから、極窮人どもは生活に困っている現状ですので、拝借金として種籾代一OO両と、水難拝借金として一五O両を貸して欲しいという願いである。この拝借願いに対して、藩庁がどのような対策をとったのかは、残念ながら史料が見当らないので不明である。当時の人びとの困惑ぶりがうかがえる史料である。明治元年の混乱明治元年正月に始まった戊辰戦争の時期、結城藩をはじめ下館藩、笠間藩、古河藩など諸藩では混乱がおこった。周年九月会津藩が新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟が瓦解すると、同年春に水戸を脱走し会津に拠った水戸藩諸生派の市川勢は、目的を失って九月末水戸に戻り、水戸城守備兵の不意をついで城内に侵入し、武器、弾薬をうばって弘道館にたてこもった。十月一日城を守る家老山野辺主水正の箪と一戦を交じえることとなった。弘道館戦争とよばれるものである。市川勢はこの戦いに敗れてふたたび水戸を脱走し、下総の八日市場に向かった。十月六日に八日市場の街はずれで水戸からの追討軍と戦い(松山戦争とよばれる)、市川勢はここでこの時市川勢は玉造から船で麻生を通り、小見川から銚子方全滅した。面へと向かっていった。)の市川勢の動向について、「慶応四年辰四月潮来御領大御山守御用留」(国立史料館蔵須田家文書)にかなり詳細に記録されている。十月八日に書かれた「口上之覚」には、次のように記録されている。473