ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世石川様より御申達シ近一、当九月末方日限わすれ、水府之脱好市川三左衛門始三百人余、旧幕之脱徒シンセン組と鰍何と欺唱候由、七八百人斗合塀いたしW都合千人程之由、野州道ヲ経来り其節太田原辺にいて少々戦、夫より水戸領馬頭村関門ヲ打破り、夫より鳥の子村と申処一一陣取、夫より道中村々悉く乱妨いたし、水府より五里程西方石塚村と申処へ参り、是又乱妨夫より領内所々村々乱妨之上、十月朔日水戸城三ノ丸大手先迄急迫いたし候ヲ一藩中ニて朔目、二日と打破り候一一付、同日夕右三ノ丸敗走いたし、所々放火之上同夜走行村々乱妨いたし、同三日朝同領玉造村へ懸り、夫より他領手賀村舟津え昼時着、船手当いたし候節ハ五百余人と偽り、数般之船ニ打乗リ夫より麻生陣屋前通船之節、水戸出兵よりも同家へ追々通達致置候ニ付、麻生ニても河付へ出兵、尚文出船之上小舟ニて及ニ応接一候処、徳川亀之介殿家来之由相答候一一付、彼是如何之わけ合事実応接いたし候処、脱人方義ハ伊野由之允と申者罷出候由、其節挨拶も不分明ニ付、麻生-一て直-一砲発いたし追討船差出候曲、其夜常州鹿島之近所息栖川岸へ着シ、夜明方同処-一て五百人分之食物相調ひ直ニ出船(中略)其内銚子川口をさし海船え乗組候者も相聞候哉之由風聞、其外ハ何れも待合所ニ相成、十月五日下総万根川付コモ敷村河岸へ相付候趣風間有之ニ付、水戸出兵之儀ハ下総河下小見川へ渡り、夫より手配菰敷と申所へ押懸候処、彼船共銚子松山岸辺へ下り着候由之処、銚子表之儀是も追々小見川井弊藩よりも通達いたし、去月右京殿御人数出兵、小見川井水府之両出兵さしはさみ、右京殿手は銚子川上松きしと申処-一て応接候処、脱徒応接人ハ其場一一て抱発打致し候由、其節七十弐、三人高崎右京殿手へ降参いたし候趣、一説一一ハ百人余とも申候、然ル所残兵474之儀ハ松岸より芝崎と申処へ上り、夫より八日市場エ(中略)十月六日昼八ツ時市場へ掛り密相伺居候処、水府之兵追掛ケ候一一付、同所寺へ逃入候ヲ追掛候処、脱好共等同所寺へ放火いたし、夫より松山何坊とか申処へ集り候ヲ追討、元水藩脱好朝比奈等首級廿四、五級討取候処、残徒之儀夫より散乱上総村々さし候者も有レ之、東京ヲさし候者も有レ之、先幕人等入交りニ三、四十人ヲ高とし、其外五人、三人追々寺ニ参候て髪などそり落し、怪我人等入交り(後略)市川三左衛門らは玉造から手賀村へ行き}こで船に乗るが、」の時五OO人の軍勢と偽っている。そして船で銚子まで下り途中降伏する者が出たが、主力勢は十月六日に八日市場の松山で最後の戦いにのぞんだ:、!0 211J、t,u-eこの戦争で朝比奈弥太郎らが戦死し、死者の首は二四か二五あったというのである。この「口上覚」は必ずしも事実とは合わないが、しかし市川勢の動向の概略はのべられている。明治という時代になってもこのような出来事が起ったから、当地方の人びとの不安は大きなものがあったろう。その上市川勢を追討するため水戸藩兵が出動したから、当地方にもそのための食料調達が命じられた。前出の「御用留」によると、当地方の村むらに「此度脱好人御追討ニ付、糟米書面之通り差出可申候」という通達があり、玄米を急ぎ日米にして大山守宅へ届けるように命じられた。わり当てられた米俵数は、冨田村と清水村が各二俵、堀之内村と牛堀・永山村が各四俵の計一二俵を牛堀村大山守宅へ、辻村と築地村が各二俵、上戸村、島崎赤須村、潮来村の三か村が各四俵、延方村が六俵の計二二俵を潮来村大山守宅へさし出すようにというものであった。前述のように大洲村では水害で種籾にも困