ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

るからと、拝借願を出しているような年であったのに、水戸藩内の分裂抗争が尾をひいて、追討軍の食料調達まで命じられるにいたっては、人びとは安心できるものではなかった。版籍奉還から廃藩ヘ明治新政府は国内統一と中央集権化の政策をすすめていった。旧幕府領と旗本領は新政府の直轄地となったが、その管轄に常陸国には常陸知県事をおいた。そしてこの知県事管下は明治二年(一八六九)二月に若森県となるように、各地方の旧幕府領、旗本領はまとめられ県と改称された。現在の茨城県域には若みやぎ〈かつしか森県と、宮谷・葛飾両県下に含まれる地域とがあった。しかし水戸藩をはじめ藩の支配体制はそのままであった。また明治になって松岡藩(高萩市)と志筑藩(千代田町)が成立することもあったから、明治二年には現在の県域に一四の藩が存在した。新政府にとってこの藩体制を改めることが重要な課題となり、実行されたのが版籍奉還であった。版籍奉還とは土地と人民を朝廷に返上し、藩主地改めて藩知事に任命されるもので、形式上旧幕藩体制を改めるというものであった。版籍奉還は明治二年一月薩・長・土・肥四藩主の奉還願ではじまった。新政府は諸藩がこれに続くことを期待し、同年六月にはそれまでに奉還幕末・維新期の潮来地方願を提出しなかった藩に対し、奉還命令を出した。各藩がこの奉還願を提出するのには、若干の時期的違いがある。現在の茨城県域の諸藩中で、最も早い提出が麻生藩の二月で、多くの藩は三月中に提出し、四月になったのが笠間・守山・谷田部の三藩であった。麻生藩の上表文は次のとおりである(「公文録版籍奉還之部」「茨城県史料維新編』所収)。第5章新庄下野守上表謹テ奉ニ言上一候、天下一新之御政体ヲ被レ為レ立、方今回陸既ニ平定シ、皇威日々ニ光輝シ、万民徳沢ニ浴シ候段乍レ恐奉ニ感悦一候、王政古ニ被レ為レ復候上ハ、微臣受領罷在候封土之儀其億私有仕候市ハ、於二名方-不二相立一恐憾之至奉レ存候、依レ之版籍ヲ収メ封土ヲ奉還シ、謹テ奉レ仰ニ天裁一希クハ微臣相当之御処置被-耐付-候様奉ν願候、以上一一月三十日新庄下野守麻生藩におくれて提出した水戸藩の上表文は、格調高く次のような文章であった。臣昭武恐憧頓首再拝、謹而奉ニ上表一候、恭ク惟今也、王政復古万機主新皇綱一ニ帰ス、真ニ千古ノ盛事ト謂フへシ、仰願クハ神皇建国ノ鴻業ヲ祖述シ、列聖経総ノ偉績ヲ憲章シ、大義ヲ明ニシ名分ヲ正シ、普天率土一轍同軌ノ皇化-一心服シ、徳輝海内ニ治ク威稜四表ニ宣ンコトヲ、是臣平生ノ素願也、依レ之始祖以来受領仕候封土版籍ヲ奉還シ、謹テ奉レ仰-一朝裁一度不レ顧ニ恐健-上言仕候、臣昭武誠憧誠恐頓首明治二巳三月徳川少将源昭武花押このように版籍奉還を上表した藩主は、同年六月にそれぞれの藩の藩知事(知藩事ともいう)に任命された。この当時潮来地方の所管をみると、水戸藩領と麻生藩領のいずれかであるが、ただ一か所二重谷地区のみが旧幕府領であったため、明治二年二月からは宮谷県に所属していた。所属と村高(寺社領も含む)は次のとおりである。水戸藩領延方村古高共ニ九五一石七斗三升八合大洲村六七六石九斗三升四合潮来村475一四二八石四斗九升一合