ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世県一部の地域が印施・木更津両県管下となった。478茨城県は水戸に県庁がおかれ、多賀、久慈、那珂、茨城、真壁郡の五近郡がその管轄下となり、新治県は県庁が土浦で新治、筑波、河内、行方、W信太、鹿島郡の六郡と、下総の三郡の一部を含む地域がその管轄下であった。印措県に属したのは結城、猿島、相馬、岡田、豊田郡の五郡であった。潮来地方は旧藩時代と全く異なり、新治県に所属することとなったから、水戸方面との関係はしばらくの聞なくなった。茨城県と新治県が合併して、新しく広域の茨城県が誕生するのは明治八年五月のことであり、ほぼ現在の県域が定められた。明治四年十一月に成立した茨城県と新治県を比較すると、人口・面積ともに新治県が大きく、人口の差は約一O万四OOO人であった(第vlM表参照)。旧藩地の統合も新治県では大変であったと思われる。県の長官も茨城県は参事山岡高歩(旧幕臣、号は鉄舟)、新治県は権令池田種徳(旧若森県権知事)であった。しかし茨城県参事の山岡はわずか一か月たらずで辞職し、その後任に権参事山口正定(旧水戸藩士族)が長官代理をつとめた。前述のように潮来地方は明治四年十一月から同八年五月まで、三年半の聞は新治県管轄下におかれたのである。