ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第1章新しい時代の幕開けク藻海松白貝辛螺蛤多ニ生へリ、とあり、よって思ふに、古昔下総浄御原天皇之世、麻続王ヲ遣ラヒテ居処ラシメキ、其海ニ、塩ヲ焼る員多し、按に、風土記に、板来駅ノ西、榎木、林ヲ成セリ、飛鳥洲或は福島と称す、宝永中、今の名に改む、此辺田間すべて朽腐せ徳島新田は大洲新田より土地つピきにて、湖中に突出せり、旧名前なる事を知らず畑中に二間四方程の篠薮あり、土人石のかろふどといふ、何人の墓枯て別に植次ぎし物にて、土人曲松と呼ぶ、古墳はあは台と云所の松は源頼朝鹿島参詣の時、烏帽子をかけ給ふ松なりと申伝ふ、今は村貯稗蔵有り、渡場は鹿島郡大船津へ渡す、湖上十八町、烏帽子懸て、本郷を去る事一里に近し郡に対す、東西十五町程、南北十町程有り、徳島新田湖中に突出し東南は川を以隔て\東に鹿島郡大船津村有り、南は遥に下総香取へたれば、古きよりの名なるぺし、村境、西は辻村、北は水原村、りめなる故洲崎といへる敗、然れとも府中税所文書に、延方郷と見料しーっか疋ら方ιみ仏邑て(み戸よ凡う/\百延方村古名は洲崎といふ、北浦へのまはの文化年間(一八O四i一七)に小宮山楓軒によって編纂された「水府史第v-2図明治維新時におけの村々の概況を、一九世紀初頭いえる八割以上を占めた水戸領る潮来町場旧領高(構成比)からみれば、町域の大部分とも内最大の近世村であった。村高うに、県域では一番二目、水戸領数え、第vl23表にみるよ延方村は、村高約四OOO石を第V-1表廃藩置県における潮来町域の村むら村名旧領主名取明治調元日年高旧県名延方村水戸藩領3744.036水戸県鹿島神宮朱印地187.180同寺社除地20.522同大洲村水戸藩領676.934水戸県潮来村水戸藩領1406.406水戸県幕府領542.259宮谷県長勝寺朱印地10.000水戸県寺社除地12.085同辻村水戸港領787.054水戸県築地村水戸藩領552.811水戸県妙光寺除地12.672同水原村麻生藩領782.696麻生県釜谷村麻生童書領385.511麻生県鹿島神宮朱印地7.160同大生神社除地3.000同大賀村麻生藩領502.338麻生県鹿島神宮朱印地9.548同大生神社除地0.592同大生村麻生藩領365.498麻生県鹿島神宮朱印地56.161同大生神社除地35.473問「各村旧高簿Jcr茨城県史料維新編』所収)より作成島新田、西は辻村、潮来村、南北は湖水にてさしはさめり、東西十【大洲新田】(戸凡六十)潮来村より分る新固なり、村境、東は徳余、南北是に同じ、貯籾稗蔵は凶年用意村貯蔵なり此聞に下利根よりの枝川ありて、常陸、下総の境とす、東西十八町境、西北は上戸村、東は辻村、南は下総香取郡加藤洲扇子島なり、に見へたる板来の郷なるぺし、元禄十一年、改めて潮来と書す、村【潮来村】(戸凡六百五十一)村名旧板久に作る、按るに、倭名高古高村、其地延方村に交錯して、二村にして一村のごとしもあるぺしはず、古言の残りしもの也、治海変じて麻田となるとは、如此事にを見て、古書に符号せる事を知れり、今も土人は海とよんで湖と云して、後自ら潮汐も来らず、貝類産せざりしと見へたり、田間朽貝して、真の入海なりと見へたり、今数多の村々ひらけ、湖中に家居常陸の新固なかりし時は此辺潮汐出入して、塩をも煮、員類をも産483