ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第1章麻生町の村々とともに小二区、延方・大洲・辻・潮来の四村は、現牛堀上ハ一員ヲ置シム市シテ副戸長ハ百簡一二員ヲ置キ各村町ノ事務ヲ485大生・大賀の五村は、現在の牛堀町のうち旧香澄村となる地域および現シ戸数ヲ以テスルモノハ八百戸一二員トス全数-一及ハサルモ半数以新しい時代の幕開けにの土示こ表木しの彰工た大に事よ区至なう小るどに区まの、制で国第の、の三実広委大施範任区に事なのよ務行二っか政らつて事、の、務窮小潮が民区来執のに町行救属域さ九助しれつ、たるの風。こ村紀水々との原はに取・、な締築第る、地。孝・V貞釜1善谷4行・表ハ段数ヲ算シテ之ヲ置ク其段別ヲ算スル者ハ八百町歩ノ地-二員ト勢均シカラス一ニ此法ニ遵則スル能ハサル者ハ即チ唯戸数ヲ算シ或之ヲ称シテ一箇トナシ四百箇三戸長一員ヲ置クヲ法トス然レトモ地其員定ムル地ノ段数戸ノ箇数ヲ以テス即チ一町ノ地一字ノ戸ヲ以テ完成、布達の伝達、勧業政策の実行、租税事務、戸籍事務、就学の督促、ク戸長ハ一小区ニ数名ヲ置キ副区長ヲ輔ケ区内ノ事務ヲ担任セシムって区長(大区)|副区小長区()|戸長・副戸長(町村)という統治組織がハ姑ラク之ヲ欠キ副区長ヲシテ之ヲ管セシム其員一小区ニ一人ヲ置ものであった。}れによ十二小区タル一百三十三トス尋テ区長副区長ヲ置クノ制ヲ立テ区長大区第三大区第V-4表小ニ区小三区延方明治5年実施大区小区制(新治県)大洲辻明治7年6月「新治県管内各区村名簿』より作成大区第十大区明治B年10月『茨減県布i壷別冊』より作成茨「城県史料七」とい)う明治八年九月十五日管内ヲ劃シテ大小区ヲ置ク:::大区為ルコト凡一一為サシメントス」(前掲画ヲ改正シ区長戸長等ヲ改置ス」はこの間の事情を次のように記す。ヲシテ奉シテ以テ程式トのと思われる。区戸長選任の範囲に関連して、「茨城県史料四」の「区区第V-5表富田水原因テ今其規程ヲ立テ区長の総計に格差が生れないように機械的な村むらの組合わせがなされたも水原築地釜谷堀ノ内牛堀永山茂木大生大賀清水富田粗毛矢幡石神麻生島並上戸島崎名南小高橋門於下五丁田舟子ヲ処スルノ方途ヲ錯マルものをそのまま引き継いでいること、などからみて、戸数、人口、石高清水釜谷ス是ヲ以テ区長等往々事定することにあったこと、また区画そのものが戸籍区として設定された赤須明治8年改正大小区制(茨城県〕永山大生時未タ其所務制規ヲ立テ行政的役割を否定し、その村域を越える規模での画一的な行政区画を設長一員ヲ選置ス市シテ当われたのかは明らかではない。ただ大区小区の目的が、旧来の近世村の村村牛堀大賀定メ既-二小区毎-一副区これら「大区小区」区画の線引きが具体的にどのような手続を経て行名上戸築島崎地延方下ルヤ本県管内ノ区画ヲには新治県時代の区画を継承した。旨は「轟ニ区長新置ノ制二大区の二つの小区に属することになるが、若干の移動を除いて基本的六項」を定める。その趣なる。この際、第V5表に示したように潮来町域九つの村むらは、潮来赤須大洲では「区長所務規則制十従来の「大区小区」の区域も再編成され、県域は一二大区二二三小区と潮来明治六年二月、新治県年(一八七五)、前述のように新治、茨城両県が合併して新茨城県が成立、であった。九年合併して島須村となる)の三村とともに小三区を構成した。明治八辻いたことと相異なる制度町のうち旧八代村となる上戸・島崎・赤須(島崎、赤須の両村は明治十