ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代なじみにくかった大区小区制を廃止して、近世以来の郡・町・村を行政現単位として復活させるというものであった。とくに町・村の場合、ひと近つの行政区画というだけでなく、独立した自治団体としての性格も認めVられ、町村の長であるコ戸長」には行政事務の担当者であると同時に町村の理事者として地位が与えられた。さらに各郡には町村と県の中間的な行政機関として郡役所が置かれ、郡長が任命された。}の郡長には町村を監督する強い権限が与えられ、県から国へとつながる中央集権的な行政機関の末端を担うこととなる。潮来町域の村々九村をふくむ七八村、七四O二戸、四万五三六人(明治十二年十月現在)を管轄下とする行方郡役所は麻生村に置かれた。次に地方税規則は、それまで民費として徴収してきた府県税などを地方税として一本化するものであった。これによって町村の費用は、町村内の人民の協議費をもって運営にあたるとされ、地方税とは区別された。地方税の税源は、地租割(地租の五分の一以内)、営業税雑種税、戸数割の三種とされたが、地租割は従来の民費をそのまま吸収したもので、民費そのものは県だけでなく町村の費用としても使われてきたため、民費が地方税として県に吸収されたことによって町村の財政運営が窮屈となった。このことは徴租、徴兵、教育などの国政委任事務に多くの費用がかかったこともあって、町村費の人民負担が増加し、郡区町村編制法によって認知された町村の自治も、財政面からみれば、きわめて限定されたものであったことを意味している。}の地方税規則によって、はじめて全国的に統一された税体系、即ち国は国税、府県は地方税、町村は協議費という税体系が整備されたのである。また、このような地方税の円滑な徴収をはかるため、府県会が開設され、府県会規則が制定された。ただこの府県会の権限は、地方税をもって支弁すべき経費の予算、およびその徴収方法を議定するものに限定さ488れ、国から任命される府県知事や県令にくらべてきわめて限られたものであった。府県会議員の選挙権は地租五円以上を納入するこO歳以上の男子、被選挙権は地租一O円以上を納入する二五歳以上の男子に与えられた。議員は郡ごとに公選され、任期は四年で二年ごとに半数改選することとされた。茨城県における第一回県会議員選挙は明治十二年三月に行われたが、潮来町域を含む行方郡からは宮本藤兵衛(玉造村)、西谷清次右衛門(井上村)が選出され、明治十四年一月の半数改選で関戸覚蔵、宮本寛太郎(いずれも潮来村)に交替している。以上に述ぺた三新法体制下、茨城県において具体的な地方統治の編成替えが始められるのは明治十一年十二月以降のこととなる。まず大区小区制が廃止され、各郡の郡域と郡役所の位置が定められた。ついで郡長が任命され、県より郡長への委任事項が規定される。潮来町域を管轄する行方郡役所は麻生村一O四九番地の小学校内に置かれ(明治十三年四月、麻生村一八二番地加藤荘一郎宅に移転)、初代郡長には飯島矩道が任命された。ちなみに行方郡役所が「本郡中最も股賑なるの地を潮来町とす梢市街の態をなして連担櫛比農商相半し頗る進歩の風あり」(明治四十四年『茨城百科全書』)といわれた潮来ではなく麻生に置かれたのは、「麻生町は潮来町に次ぐの大邑にして梢々市街の態を具ひE郡の中部にありて郡内各地よりの交通至便なるを以て本郡を統治するの郡衝を此地に置く」(前掲書)と記されるように、主として郡管轄下町村からの距離が勘案されてのことであった。この郡役所と郡長の設置についで、町村の再編成がはじめられ、任命直後の郡長に対し、「今般町村戸長配置ニ就テハ一二百箇一二員ヲ目途トシ相撰ペキニ付町村聯合又ハ分裂等ノ難易便否篤ト下問ノ上人民総代連