ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近第二節一町三村の誕生V明治二十一年(一八八八)四月、「市制」「町村制」、田町村の成立十三年五月に「府県制」「郡制」が公布され、明治憲法体制下における新しい地方制度が確立された。茨城県では市制・町村制は明治二十二年四月一日、郡制は明治二十九年七月一目、府県制は同年十月一日に施行されたが}れらの新しい地方制度の実施に先立って大規模な町村合併が断行された。まず明治二十一年六月、次のような文言ではじまる内務大臣訓令が出され、同時に具体的な町村合併の標準が示されて「各町村大凡ソ三百戸以上ヲ常例」とされた。従ってほとんどの町村では二、三か村あるいは数か村にもおよぶ合併が必要となったのである。町村制ヲ施行スルニ付イテハ町村ハ各独立シテ従前ノ区域ヲ存スルヲ原則トナスト雌モ其ノ独立自治ノ目的ヲ達スルニハ各町村ニ於テ相当ノ資力ヲ有スルコト又肝要ナリ故ニ町村ノ区域狭小若クハ戸口僅少ニシテ独立自治ニ堪ユルノ資力ナキモノハ之ヲ合併シテ有力ノ町村タラシメサルヘカラス茨城県でも明治二十一年九月、次のような趣旨のもとに県諮問案を各郡長に示し、各郡長は各村人民総代を百集してその是非を審議した。法律第一号ヲ以テ町村制ヲ発布セラレタルノ精神タルヤ専ラ其固有ノ旧慣ヲ存シ其従来ノ沿革ヲ重シ現町村ヲシテ独立自治セシムルノ旨趣タル更ニ賛言ヲ要セサルナリ然ルニ之カ実施ヲナスニ当リ最モ必要ナルハ町村ノ力能ク此独立自治ヲナスニ足ルヤ否ヤヲ判別スルニ在リ試-一現今ノ町村ヲ通観スルニ其大半ハ狭小ニシテ本制-一ヨリ490其資格ヲ保有スルモノ殆ト稀ナリトス故-一本制実施ノ前-一当リ分合ヲナシ独立自治一一耐ユヘキ町村ヲ造成スルハ勢不可止ノ順序ニシテ又法律ノ旨趣-一於テ避クヘカラサルノ要件タリ而シテ該分合タル乃チ町村永遠ノ基礎ヲ定ムルモノニシテ其得失如何-一依リテハ利害休戚ノ判スル所実ニ軽々ニ処ス可カラサルノ挙ナリ故ニ県庁一一於テハ一意其適実ナランコトヲ勉メ従来ノ沿革其他百般ノ関係精悪審査ヲ尽シ郡戸長及地方有力者等へ諮問ノ上乃チ別紙分合表〈略〉ノ通リ取調ヲ了シタリ然レトモ其分合処分ノ為メ直接-一受クル所ノ利害ハ一ニ関係町村ニアルヲ以テ荷モ法律ノ旨趣-一惇ラス公益ヲ害セサル限リハ勉メテ民意ノ向フ所-一従ヒ之カ処分ヲ為サント欲ス是レ弦-一本案ヲ発スル所以ナリ各員宜ク此意ヲ了シ反覆審議ヲ尽シ答申アランコトヲ望ム潮来町域における町村合併は、最終的には第Vl8表に示したように一町三村の成立となるが、その経過および合併理由などを明治三十年発行の『茨城県町村沿革誌』によってみてみよう。まず潮来村と大洲村の二村より成立した潮来町の合併理由は次のように記される。「本町ノ内旧潮来村ハ戸数千八人口四千二百余アリテ、資力克ク一町ヲ維持シテ独旧大洲村ハ到底独立ノ資力ニ乏シク他ト合併セサルへ立自治シ得ルモ、カラスニ当リ、大洲ハ元ト潮来ノ分村ニシテ人情風俗相同シク地勢又敢テ他ノ町村ニ合併スルノ不便ナルアリ、芳往時一村ノ縁故アルニ依リ、大ナルニモ拘ラス合併シテ一村トナス」。また町の名称および役場位置については、「本町ノ内旧潮来村ハ往古板来駅ノ称アリ、中古文字ノ変更アリト雄モ、其名ハ夙ニ全国ニ聞エテ著シク、Eツ家屋櫛比自ラ市街ノ形ヲ存スルヲ以テ、従来ノ村ヲ更メテ町トナス、旧潮来村ハ人畑調密